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僕らはみんな生きている

2006年06月14日 14:20

僕らはみんな生きている

 何年か前に,「徹子の部屋」に坪倉優介という人が出ていて,そこで紹介された本が「僕らはみんな生きている」という本だった。
先日,テレビで彼のことを扱った番組を放映していたので,感慨深げに読んだことを思い出した。
その中に,こんな記述があった。
「かあさんが,ぼくのまえになにかをおいた。けむりが,もやもやとでてくるのを見て,すぐに中をのぞく。すると光るつぶつぶがいっぱい入っている。きれい。でもこんなきれいなものを,どうすればいいのだろう。じっと見ていると,かあさんが『こうしてたべるのよ』とおしえてくれる。なにか,すごいことがおこるような気がしてきた。だから,かあさんとおなじように,ぴかぴか光るつぶつぶを,口の中に入れた。それが舌にあたるといたい。なんだ。いったい。こんなものどうするんだ」
これを書いた(んだと思う)坪倉青年は,18歳のときに,バイク事故でそれまでの記憶を失ってしまう。
18歳にして,0歳児の知能になったようなものだと思う。
その後の話はよしとして,この記述を見て思ったのが,「裸眼でものを見る(感じる)」ということ。
いわゆる「知識」というものを無しにして,「ごはん」そしてそれを「食べる」という行為が描かれている。
たぶん,普通の18歳にはその行為をこんな風には描けないと思う。
だって,この長い記述は「ごはん」と「ごはんを食べる」ということなんだから…。
そこから,1つの言葉の中に,いかに多くの説明を含んでいるかということが分かる。
そして,そんな風にものを見ることが出来なくなっている自分を感じた。
さらに,この本を読んで思ったのが,「詩人だなぁ」ということ。
1つの行為を感じたままに描いている分だけ,それ自体がものすごく新鮮なもの・ことに感じられた。
まさに無駄なものがない状況(←これが『裸眼』)でものごとを見る(感じる)ことが出来ているのではないかと思う。
優れた詩人の作品にも,そういった部分をとても感じることがある。
飾った言葉のない分だけ,信実(←こだわって使用)だけがクローズアップされているような気がする。
だから,ということではないが,知識があることだけが素晴らしいものでもないなぁ,なんて思った。

 皆さんは,頭でっかちになっていませんか?

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