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戦争の影; オランダ、インドネシア、日本の狭間で

2008年09月30日 05:14

戦争の影; オランダ、インドネシア、日本の狭間で

2008年 9月 27日 (土)

もう10年ほどボランティア翻訳通訳をしたり求められると何か日本の事を説明したりしている。 それで今日はそういった会合があり出かけてきた。 100kmほど離れた町から帰宅する途中で日が沈む美しい景色に誘われて舅姑女の処に寄ったら年寄りも含めた集合住宅中庭で80を越した多くの人たちがバーベキューの宵を楽しんでおりその中で病弱の姑女が元気なことを喜びまた突然の訪問に年寄り達に日本人息子だといつものように紹介されてもおりイタリア人の息子もいると誇らしげにいわれるのに少々面映い思いもした。 この人たちの所に行くたびに彼らの様々な思い出を聞くこととなり時代が今から50年60年と一気に戻るような気分になるものだ。

オランダには「JINの会」という協会があって会員は50-60人ぐらいはいるだろうか。 JINというのは漢字の人(ひと)、何人のジンでもある。

Japans-Indische Nakomelingen (日本人インドネシア人の子孫)の略で、第二次大戦中(後)に生まれインドネシアオランダ人を母に、日本人を父に持つ子孫を略してJINの会である。 つまり彼らは1942年から1948年の間に旧オランダインドネシアで生まれた人たち、もしくはその子供達だ。

この会は1991年、つまりつい最近設立された協会だ。 それは戦後63年経った現在、17年前というのは戦後史的には最近ということだ。 現在かれらは60-66歳で、すでに人生の秋を迎え自分のアイデンティティーをしっかり見据える時期でもある。 つまり、自分は何処から来てどう生きてこれからどうなるのか、自分は何なのか、ということを落ち着いて確認する時期にあるということだ。

Identityというのは厄介だ。 自分が自分である、ということの確かさはどこにあるのか。 この年になると充分世間を渡り、家庭をなしそろそろ孫もできる頃だ。 戦中(後)そして自分の青春期、壮年期を思い起こし自分の人生に影を落としてきた茫漠として見えない父親のことを知り自分が何者かということを捜そうとするのはもっともなことだ。 自分の親、先祖のことについて知りたいというのは古今東西おおむね一般の傾向でもあるが彼らがそれを行おうとするには幾つもの障害が伴う。 

今、日本の若者のなかで嘗て日本がアメリカ、ひいては連合国と戦争をしたということを理解しない若者が増えていると聞く。 そしてそういう質問があるとどっちが勝ったの?とは逆に訊くような阿呆もいるそうだ。 それが戦後、金儲けだけにまい進してきて過去の歴史を都合よく捨て去ってきた国の現在だ。 それで今その国は富んでいるといえるのか。 

会員である彼らのことを考えてみよう。 生まれたとき敵国の兵士が自分の父親で、母親インドネシアオランダ国籍だから戦後植民地から旧宗主国であるオランダに引揚者としてくれば、オランダインドネシア両文化に対して正面から溶け込む難しさに加えて旧敵国日本の父親をもつことでオランダインドネシア系両方のコミュニティーから自分の生い立ちについて有象無象の自分には故のない罪悪感、圧力を感じてほとんどの会員は生涯をこのことが重く自分のアイデンティティを考える上でなかなか抜けない棘となっている。 その経過を経て今は社会に根付き落ち着いたものの今、中年以降となり自分の父親を捜し、自分の血の中に流れている日本を確認したいということになるのは当然のなりゆきだろう。今までオランダ人でもない、インドネシア人でもない、また両国の血を引く人たちのグループとも異なった者である、と自覚してきた人生なのだから一層社会の中の少数派として同類を求める方向に進むことにもなる。 そして、そのような「運命」をともにする人々が自分たちで立ち上げたグループオランダメディアで紹介されてから集まったのがこのグループだ。

オランダには政府機関、学術研究機関の概算でこういう人が1000人前後いるだろうといわれているが確かな数字はでていない。 この子供達は自分の父親に興味がないか、それとも親から彼らは敵国の父親ではなくインドネシア系の父親だといわれているのか、はたまたそれが分っていても旧敵国の兵士を父に持つことを恥としてそれを隠そうとするのか、こういう会の存在を知らなく個人的は行動をとれないということもあるのか、この会が確認している名簿では概算の一割程度で会員は更にその半分程度でしかない。 そして、この17年の活動で30人ほどが父親もしくはその家族、日本の兄弟姉妹と接触をとることに成功している。 会員は父親をある程度確認できる糸口をもっていたものが多いけれど、中にはそれが殆どない者もいて希望はほぼゼロに近いにもかかわらず父親の祖国の文化、歴史を会員と共有したいと会合に参加する人々がいる。 殆どが父親から与えられた日本名をもっていることも父親と母親の関係が普通以上に深かったことを示すものと考えられる。 誰が自分の望まない子供に自分の祖国の名前をつけるだろうか。

明治以前の日蘭関係は教科書に載りオランダ日本人には親しいものとなっているが第二次大戦以後のアジアにおける戦争の歴史は暗部としてその取り扱いについては未だ明確なものとはなっていない。 それにそこでの日蘭関係以上にアジア地政学上重要な日中関係の圧力の影が覆っていて小国オランダとの過去を清算する努力はおざなりにされてきたきらいはあるものの現在、徐々に彼らの努力日本政府外務省厚生労働省を動かしつつあるようだ。 この10年以上複数の会員が、旧蘭領インドネシアにおける日本軍収容所ですごした旧軍人、軍属、その遺族の会の会員とともに日本各地を毎年訪れて対話の機会を持ち戦争がもたらした後遺症を様々なかたちで治癒するべく努力を続けている。2000年には日蘭修好400年を記念して訪蘭なさった天皇皇后陛下とも直接面会する機会も得ていて両陛下の彼らにたいする理解と対応には皆、過去の苦労に報いるありがたいものとして喜び、将来に向けて建設的な一歩になると評価している。

けれど歴史の中でこのような運命を背負って生きている人たちに何らかの心の安らぎを与えるべき、自分のアイデンティティーを捜す旅の何がしかの助けができるのは少なくとも50年代に生まれ戦後、いつも戦争の影が纏わりついていた年代の者にとっては自分のアイデンティティーを確かにするプロセスでもある。 還暦に近づく自分にとっては彼らは自分の兄や姉であってもおかしくないのだ。

この集会に出かけるたびに奇妙な感じにとらわれる。 それはオランダ人でありインドネシア文化の中にも根を持ち彼らとオランダ語で対応する彼らが私の故郷の村人、親戚の伯父さん、伯母に相当するような懐かしい感じに捉われる事だ。 そして日本名を持ち、、、、、、。 

彼らが還暦を越しているという事実は彼らの父親はもう殆ど鬼籍に入っているということを示している。 これからは彼らの次世代と日本の家族との交流がここでの活動の主流となるのだがまだ多くの会員は父親の影を追って自分探しの旅を続けることになる。

我々の年代はともかく今の若い人たちはこのような歴史の事実をどのようにうけとめるのだろうか。


オランダにある「太平洋戦争とその後をめぐる日蘭対話の集い」のホームページ
http://www.djdialogue.org/index.htm

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