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ゼロの焦点 ;見た映画 Aug. ’06 (2)

2006年08月28日 00:04

ゼロの焦点

1961年/95分 

原作:松本清張
脚本:橋本忍山田洋次
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志
出演:有馬稲子久我美子高千穂ひづる、南原宏治、西村晃加藤嘉沢村貞子

松本清張のものは1960年代の初め中学生のころ、毎月一冊づつうちに届いた河出書房、現代の文学全集の一冊で「黒の福音」を読んで、そのとき子供の自分にもわからないが、なにか不条理がある、といきどおりと暗さの結末の印象が今も残り、戦後占領下の事情もその後、時代が変わるとはいえ、同じ全集大江健三郎の「奇妙な仕事」あたりとも繋がるのではないかとも思い、また何年も経ってから家のものが読んでいた松本の「昭和史発掘(1965~72年、文藝春秋新社、文藝春秋)」のシリーズもあちこち拾い読みした記憶が薄っすらと残っている程度だ。

松本印刷工からたたき上げの作家らしく時代を底から眺め上げるように緻密に調べあげ推理小説に構築することで定評を得ていたように思う。 作品舞台になる社会を考証してそのなかに人物像を作り上げ、作品を作り上げて行ったのだろうが自分はあいにく、いわゆる推理小説にはあまり惹かれなかったから読む事はなかったが犯罪、謎解きには興味がないものの、それに向かわせる人間のありようには深い興味をもっていたものの、単純に犯罪を数式を扱うように200ページほどで機械的平面的につくられたもの、謎解きに中心が行き登場人物に厚みがないものが多い推理小説敬遠していた。 けれど松本には多く戦後の社会に置かれてその暗部からにじみ出るものが人物に集約するような作品が多いと仄聞する。

この映画にはいろいろな意味でなつかしい思いを引き出してもらった。 私が育ち物心がつく50年代の終わりから60年代の初めにかけての田舎の風景である。 子供の頃には田舎で育った自分は野山で村の子供たちとも遊び子供の世界を通じて社会的生活を経験し、その後、大人の村社会の閉鎖的な様子も知ることとなるのだが、そのころ急激に都市近郊の村の風景は激しく変化することとなる。 例えば、50年代末期には村を流れる川で近所の女たちが集まって洗濯物をする近くで子供達が泳いだり川蟹を取って遊んでいたものが上流からの工場廃水による汚染が始まり、川原から人が消え川原に至るまでの両岸も大きくコンクリートで覆われてしまい川が単なる溝になり、その後、村の大人、子供には川は汚い排水溝以外の何物でもなくなる。 この映画のなかにはそれがあるというのではないが、50年代後半の能登半島の景色があらわれ、金沢の町並みが示され、蒸気機関車がはしり、特にこの作品の冒頭で南原から示される「能登の風景は重く鉛色の鬱陶しいもの以外のないものもない」というよく使われてきた常套句をまたここでも聞くこととなる。 モノクロカラーでも一層それが協調されるのだが色調が美しい。

瑣末なことで美しさを驚きをもって感じたのは夜行列車で久我が穂積金沢へ向かう列車の太い窓枠の木目のモノクロームの背景として現れた一瞬の美しさだ。 大体、この映画のあちこちでモダンカメラワークが見るものを魅了することが多かった。 角度、フレームのなかでの人物構成などにそれが出る。

監督、野村芳太郎という人の作ったものは後年、テレビでも映画化もされた大岡昇平原作の「事件」(1978)を当時、会社を休んで週日の午前、客のまばらな映画館で見て、若い大竹しのぶ演技に圧倒されたことを記憶する程度だ。

この脚本、音楽、出演にしても懐かしい人たちの若い頃の作業、演技に接して、後年になると出始めた役者達の「あざとさ」もなく自然で納得のできる演技だった。 お姫様時代劇女優だったように記憶する高千穂を始め、いつまでも同様の演技を続けた久我、沢村にも西村にも今からよみがえるとこの当時の若さ演技を見て現在巷に溢れる不自然な過剰演技もなく自然に話が流れていくのは野村のぬらのスタイルとしても大層好ましいものだ。

設定で面白いと感じたのは主人公、南原の職種、過去である。 大学を出て何年か出兵し戦後東京の風紀がかりの警官として多くアメリカ兵の慰安婦として機能した女性の取り締まりにかかわり、その実態から職務に嫌気が差し、その後、転職して広告代理店に勤め有能な社員として出世して新婚一週間で失踪という人品好ましい人物として描かれているのだが、現在ではこの高度情報世界をメディア駆使して操作する基幹産業である広告業界の人間を戦後のこの世界に持ってきていることである。 戦後世界の悲しくもある女たちの職業に関する情報がこの事件に大きくかかわっていることでも時代のインパクトはある。 現在、おおっぴらに性にかかわる風俗、性情報が氾濫し、性に関しては低年化、あたかも開放されたかのように見える放埓の中で比較すれば明らかにこの映画のなかの職業としての性を担ってきた人間は時代の社会モラルとの軋轢、押しつぶされながらも真摯さをもち足掻くものとして作られているのだが、特に南原の男としての優柔不断さに対照する有馬の描き方には出演時間は短いものの作者の松本野村が最も叙情を持って力を注ぐところでもあったのだろう。 この映画は女の映画である。 男の南原、西村は世間の新旧でありそれに女の沢村が続く。

久我が能登事務所を訪れ、その折に会社の受付でアメリカ人に対応する有馬英語を聴いてこれは実際に肌身で覚えた米語である、と判断するくだりは現在でも有効な人品を判断する基準である。 そこでも大学で英語を修め、南原に嫁いだ新妻の育ちと有馬の過去が対照されおもしろかったのだが、しかし当時としては圧倒的に支持されたであろう高千穂の面立ちと比べて、あまりにも現代的に華麗な有馬とその後の描かれ方にはには少々見ている方が照れをも感じるもので、これは個人的な嗜好ということもあるのだなあと自省した。

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