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ネットの印象的な話 、5つ
2014年02月17日 09:52
[アルゼンチン出身のサッカー選手テベスの話]
テベスの首と胸にある傷は、子供の時、熱湯を被って火傷を負った跡。
無知な母親が火傷した患部を毛布でくるんで病院に行ったので、跡が酷くなってしまった。
貧乏だったので最低限の治療しかできなかったせいもある。
だが今はお金もあって、傷跡を消すこともできるが、自分がスラム街出身であることを忘れたり恥じたりしない証しとして、手術しないと決めている。
[カズと少年]
リーグが始まった年だから、もう何年前になるんだろう。
名古屋の栄の焼き肉屋へ家族で行ったときのこと。
座敷席にカズさんと北澤選手と、数人の女の子がいた。
多分遠征中だったのだろう。
当時高校生の俺の小学校三年の弟はサッカーをやっていた。
折角だからと、尻込みする弟をカズさんの前へ連れて行って、「お楽しみのところすいませんが、弟がサッカーやっているんで、何か言葉をいただけると励みになるんですが」と厚かましく言った。
カズさんは「お、サッカー少年か」と楽しそうに言いながら、座敷席の奥からわざわざ立ってこちらへ来てしゃがみ込み、弟と目線を同じ高さにした。
「サッカー少年は勉強がよくできるか?」と、いきなりキングは弟に聞いた。
弟の成績はそれなりによい。弟はうん、と答えた。
するとキングは「頭のいいやつは、トップ下MFがあってる」と、カリオカ、ラモスの名前を挙げた。
更に何かを言おうとするキングに連れの女の子が「ねえまだー」と露骨にいやそうな顔をした。
カズは、振り返って一言言った。
表情は向こう向きだったから、わからなかったが、多分厳しい顔をしていたのだろう。
「煩い。俺達は今サッカーの話をしているんだ」
[中日ドラゴンズ時代の星野監督と中村捕手]
かけだしの頃の中村は常に星野にドヤされ続けていた。
鉄拳制裁は勿論、時には、「お前など辞めてしまえ!」 のキツい一言。
本当に辞めようかと思い悩んでいるところに母親から一本の電話が。
「お前最近頑張ってるそうじゃないか。こないだ監督さんから連絡があってね。見所のあるいい選手だからお母さんは安心して見ていて下さいと言ってくれたよ」
その後、中村は10年近くに渡って中日不動の正捕手としと活躍した。
[大きな大きなホームラン]
アメリカのとある地方に野球観戦の大好きな、でも、目の見えない少年がいました。
少年は大リーグ屈指のスラッガーである選手に憧れています。
少年はその選手へファンレターをつづりました。
「ぼくは、目が見えません。でも、毎日あなたのホームランを楽しみにしています。しゅじゅつをすれば見えるようになるのですが、こわくてたまりません。あなたのようなつよいこころがほしい。ぼくのヒーローへ」
少年のことがマスコミの目にとまり、二人の対面が実現することになりました。
カメラのフラッシュの中、ヒーローと少年はこう約束します。
今度の試合でホームランを放てば、少年は勇気をもって手術に臨む、と。
そして、その試合、ヒーローによる最後の打席。2ストライク3ボール。
テレビや新聞を見た多くのファンが、スタジアムで固唾をのんで見守り、少年自身も、テレビの中継を祈る思いで聞いています。
ピッチャーが投げた最後のボールは、大きな空振りとともに、キャッチャーミットに突き刺さりました。
全米から大きなためいきが漏れようとしたその時、スタジアムの実況が、こう伝えました。
「ホームラン!月にまで届きそうな、大きな大きなホームランです!」
[甲子園の土]
甲子園・・・
高校野球と球児を応援する人々にとっての甲子園...
日本の土~首里高校1958年の長い旅~
1972年5月15日 第二次世界大戦後、アメリカ軍に統治されていた沖縄が日本に復帰し沖縄県となった。
それ以前、沖縄は外国だった。
1958年、米軍統治下にあった沖縄の代表校から4人の選手が甲子園へ旅立った。
首里高校主将:仲宗根弘
那覇高校エース:国吉真一
コザ高校主将:安里嗣則
石川高校主将:石川 善一
4人は、沖縄高野連設立の掛け橋となられた故・佐伯達夫氏
日本高校野球連盟福会長(当時)の手厚い計らいで招待され、海外...甲子園へと向かった。
雲の上の存在、どこにあるのかさえ知らなかった甲子園。
当時の沖縄は、テレビの普及がなされていなかったことから、夏の決勝戦だけがラジオで流れ、ベースボールマガジンが輸入されていた時代。
プロ野球や東京六大学野球の情報が主で、海外...沖縄の高校球児にとって、今日のような甲子園へ想いとは掛け離れた場所だったことが分かる。
そんな沖縄の4人の球児が甲子園を訪れ、甲子園でプレーしたい想いを抱き『次の夏、沖縄予選で勝ち抜けば甲子園にこられる。絶対に甲子園にきてやる』の想いを胸に夏の大会に挑んだ。
1958年夏、沖縄大会。
決勝を戦ったのは石川高校と首里高校。
第40回全国高校野球選手権記念大会へ
優勝した首里高校が招待されることになる。
当時の沖縄高校野球が全国のレベルに遠く、首里高校は 初戦の敦賀高校(福井)戦で13三振を奪われ0-3の3安打完封負けをする。
甲子園の大観衆から「また来いよ」と、惜しみない拍手と暖かい歓声が掛けられた。
首里高校の甲子園出場は、沖縄と本土の掛け橋となり、今日活躍する沖縄球児が甲子園を目指す原点となったのだと思う。
また、海外...沖縄にとって、この首里高校
甲子園出場でもうひとつのドラマがあったことを知りました。
沖縄の人々が本土へ渡るにはパスポートがいる当時のアメリカ領沖縄。
首里高校球児は、本土の祖国への思いを胸に甲子園の土を拾い持ち帰ろうとしていた。
首里球児が甲子園から沖縄へ帰った際、那覇港へ上陸する直前に今では考えられない心の痛む出来事が起きた。
彼らが集めた甲子園の土は「植物検疫法」に引っかかるという理由で検疫官の手で海中に捨てられてしまったのです。
この時の首里高校ナインの心情を思うと胸いっぱいになってしまいました。
ただ、この土を海に捨てなければいけなかった検疫官の気持ちも思うと、沖縄の方々が歩んでこられた歴史には私たちには計り知れないものがあったのだと胸が痛みます。
この痛たましい出来事は、新聞で全国に知れ渡り、心を痛めた1人の女性、日本航空のスチュワーデス近藤充子さんが土がだめなら甲子園の石を・・・と首里高校ナインの元へ温かい心が届けられた。
その石は、甲子園のダイアモンドに形を変え記念碑に埋め込まれ、今でも首里高校で友愛を繋いでいる。
このウラログへのコメント
また盛りだくさんですね
これだけあると、
どれにコメントしたもんか
まよいます
(^^)
SYUZO-さん:内容が濃いのが少ないですからね
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