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ネットの印象的な話、4つ
2014年01月04日 23:27
[武士道]
それは、1942年、ジャワ島スラバヤ沖で起こった。
当時の戦況は日本が圧倒的に優位。
イギリスのフォール少尉の乗る駆逐艦「エンカウンター」は撃沈され、400名以上のイギリス兵がたった8隻の救命ボートにしがみつき漂流した。
「オランダ軍がきっと来てくれる」フォールはそう信じていた。
船から離れる前に打ったSOSの無線を受信できる位置に、味方のオランダ軍の基地があったからだ。
しかしいつまでたってもオランダ軍の救助は現れなかった。
不安の中、乗組員達はパニックに陥った。
「もう限界だ・・・」
「諦めちゃダメだ。必ず助けが来る。生きて祖国に帰るんだ。家族を思い出せ。」
それは、自らに言い聞かせる言葉でもあった。
だが...
夜が明け、漂流から20時間近くたっても助けは来ない。
苦しさのあまり、自殺しようとする者も現れた。
そんな時...
「見ろ!船だ!」
「おーい!助けてくれー!」
希望の光が降り注いだ。
「...、待て」
フォールの前に現れたその船は、日本海軍の駆逐艦、「雷」(いかづち)。
乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、連合軍の船3隻を撃沈させるなど、その威力をまざまざと見せつけていた。
その指揮をとったのは、艦長工藤俊作(少佐)。
身長185cm、体重90kg。
堂々たる体格の猛将であった。
工藤艦長の目に、ボートや瓦礫につかまり、必死に助けを求める400名以上ものイギリス海兵の姿が映った。
イギリス兵たちは死を覚悟した。
「敵を救助せよ」
雷は救助信号の旗を揚げた。
工藤は、ある信念を貫いた。
それは、彼が海軍兵学校の頃から教育された、武士道だった。
“敵とて、人間。弱っている敵を助けずしてフェアーな戦いはできない。それが武士道である”と。
日本兵は全力でイギリス兵の救助に当たった。
甲板上では、油や汚物にまみれていたイギリス兵の体を、木綿の布とアルコールで優しく拭き、更に、日本兵にとっても貴重な水や食料を惜しみなく与えた。
そんな時、一人の日本人乗組員が「艦長、このまま救助を続けると、戦闘になった時、燃料が足りなくなると言っています」
「構わん。漂流者は一人も見逃すな」
その後も工藤は、たとえ遠方に一人の生存者がいても、船を停止し救助させた。
そして、溺れていた全てのイギリス兵を救助した。その数は「雷」の乗組員の2倍近い、422人にのぼった。
しかし、イギリス兵は捕虜である身には変わりはない。イギリス兵達は何をされるのか不安であった。
工藤は彼らの前に立ち、英語でこう伝えた。
「諸官は勇敢に戦った。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」
救助されたイギリス兵は翌日、ボルネオ島近辺で病院船に引き渡された。
救助されたイギリス兵の一人、サムエル・フォールは戦後、外交官としてサーの称号を得た。
彼は自らの人生を一冊の本にまとめた。その1ページ目にはこう書かれている。
「この本を、私の人生に運を与えてくれた家族、そして、私を救ってくれた”工藤俊作”に捧げます」
駆逐艦「雷」はその後撃沈され、乗組員はほぼ全員が死亡、艦長工藤俊作は別の艦に移動していており、戦後日本へ帰国したがこの経験を一切語らずに、昭和54年死亡した。
[誕生日って、お母さんが世界で一番頑張った日だから、だからお祝いするの]
助産師をしている娘が、自分の誕生日に言った言葉です。誕生日は「自分が元気に成長した、そのお祝いだ」そう思ってきました。娘の誕生日も。
還暦を迎えた自分が知らなかったことを娘から教わりました。
「誕生日って、お母さんが世界で一番頑張った日だから、だからお祝いするの」
目から鱗でした。
でも30年前、娘が生まれて初めて逢った時に、妻に有り難うといった筈なのに。忘れてしまっていたのです。
その娘が、世界で一番頑張って可愛い初孫を生んでくれました。丈夫な妻に、娘に感謝です。
[いつでも帰ってこい]
無口で無愛想、論理的な物言いで人の考えを否定する父が大嫌いだった。
そんな父と一緒に居たくなくて、家にいる時は自分の部屋から出ず、食事時間もずらして一人で食べるようにしていた。
会話と言ったら父が仕事から帰ってきた時の「お帰りなさい」「ただいま」だけだ。
大学は県外を受けた。家から出たいと思ったからだ。最初は淋しい気持ちもあったけれど、一人暮らしは快適だった。
契約の2年が過ぎ、実家に戻ってからも一人暮らしをしている彼氏の家に入り浸り、帰らない日が続いた。
大学を卒業し、社会人になって実家には帰るようになったが、父との関係は変わらなかった。どうしても家から出たい。そう思った私は彼氏に同棲させてほしいとお願いした。
彼氏の承諾を得て、両親に挨拶をした翌日、私は家を出て行った。しかし同棲してみると、仕事と家事とで毎日くたくた。
「家事、手伝ってよ」
疲れてる、面倒臭いと言う彼氏と何回も喧嘩になった。
母に仕送りのお金を渡しに行った時、たまたま父がキッチンでお茶を飲んでいた。リフォームされた実家に私の部屋はもうない。父の向かいに腰を下した。
「最近どうだ?困っている事はないか?」
話しかけてきた父につい、「戻ってきても良い…?」と呟いてしまった。
どうせまたお前の考えは甘いだのなんだの言われるに決まってる。しまったと思ったが、予想外の言葉が返ってきた。
「ここはお前の家だ。いつでも帰ってこい」
私は下を向きながら小さく「うん…」としか答えられなかった。
逃げる場所や家族がいる。そう思うと気持ちが楽になり、思いつめる事もなくなった。
その後、彼氏と結婚。家族は皆喜んでくれたが、私はまだ言えていない事がある。
お父さんって本当は不器用なだけなんだね。今更ながら気付いたよ。
旦那がね、お父さんに似てるんだ。口では悪く言ったりするけど、気付かないような所で私を守ってくれてるよ。今までご免なさい、いつも有難う。
[人生に無駄なことなんて一つもない!]」
私がまだ若かった20代前半のころ。何の目標もないフリーターでした。
ただただ毎日朝から晩まで働いて、身も心も疲れ果てていました。
そして毎日のように、全て事が無意味に感じて、「何の為に働いているんだろう」「こんな人生でいいのか」と思っていました。
そんな時、バイト先の社長と話す機会ができて、自分の今やってることが全て無駄なんじゃないかと胸の内を全て話すと最後に一言。
「人生に無駄なことなんて一つもない!」と笑いながら励ましてくれました。
楽観的な社長でしたが、その言葉で私の心が軽くなったのを今でもよく覚えています。
何かにつまずいた時や、うまくいかない時には、その言葉を心に刻むようにしています。
このウラログへのコメント
どれも素晴らしい話で、それぞれ独立のログにする価値有。貴女も少しペースを落として。自分を褒めてあげて
ベソさん:有難うございます
できない時は投稿してなかったり、無理はしてないけど有難うございます
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