デジカフェはJavaScriptを使用しています。

JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。

うつせみ ;観た映画、Jan 09

2009年02月02日 13:01

うつせみ(2004)

英題 3-IRON
88分
製作国韓国/日本
監督:キム・ギドク
製作:キム・ギドク
脚本:キム・ギドク
撮影: チャン・ソンベク
音楽: スルヴィアン

出演: イ・スンヨン ソナ
ジェヒ テソク
クォン・ヒョコ ミンギュ
チュ・ジンモ チョ刑事
チェ・ジョンホ 看守

 「春夏秋冬そして春」「サマリア」の鬼才キム・ギドク監督が描く静謐な愛の寓話。暴力夫によって自由を奪われていた女性と謎多き青年が2人だけの秘密の旅を通じてほとんど言葉を交わすことなく繰り広げる魂の交感を静かに見つめる。第61回ヴェネチア国際映画祭では監督賞をはじめ全4部門を受賞。
 留守宅に侵入してはシャワーを浴びたり食事をしたりという行為を繰り返しながら転々と放浪生活を続けるミステリアスな青年テソク。ある時、いつものように空き家だと思い込み忍び込んだ豪邸で、テソクはその家の住人ソナに遭遇する。彼女独占欲の強い夫によって自宅で監禁状態にあったのだった。生気がなく抜け殻のようなソナ。やがてテソクは夫に虐げられたソナの悲惨な結婚生活を目の当たりにすると、彼女を屋敷から連れ出してしまう。そして、ソナと2人で留守宅を転々とするようになるのだったが…。

そのように映画データーベースに載っていた。

一般的にハリウッドのものが席巻するなかでテレビに登場する映画でアジアのものが現れる機会はすくないもののヨーロッパ各国の国営放送は定期的に非欧米国のものを放映している。 イギリスはその点、「大陸」の国々に比べてそれが極端にすくない。 それは英語の世界言語としての座に安住する英米人の字幕アレルギーによるものなのかとも忖度するがそれならドイツや日本のようにオリジナルの風味は一挙に衰えるものの吹き替えにすると少なくとも意味の理解はできるはずだ。 そういうところでは所謂、ワールドムービーと呼ばれる非欧米言語圏のものはよほどの世界に目が向いた映画好きでないとこのような映画を見る機会はすくないだろう。

毎週テレビガイドアジアの映画が出ると私は他の目ぼしい映画とならんでヴィデオに録画しておいて後から観る事にしているのだが、そのテレビガイドの「本日の映画」のページに毎日、説明つきで20本ほどが紹介されている。 それぞれに星がついており最高5つ星のうち4つ星以上をマークしている。 この韓国映画には2つ星がついていた。 今までに出た韓国映画の中では評価が低い。 しかし、この深夜、時間もあったことから録画しつつ同時にビールの小瓶を手にこれを見始めた。

初めの幾つかのカットで町の様子が示され近代的な韓国の都市が映し出され、ヨーロッパから見れば東京ソウルもそれだけでは見分けが付かないほどだ。 住宅街にしてもそれがかなり裕福な層の住居に見受けられるし、そこで高級大型オートバイBMWを使って韓国料理屋のチラシを一軒一軒入り口のドアの取っ手に貼り付けていくアルバイトの若い青年が登場し、その仕事の種類と高価なオートバイを自分のものとして乗り回すそのアンバランスに興味が行ったのだ。 

この映画にはさまざまな「何故」、が意図してかどうか仕組まれている。 どこか現実感が希薄なところにそのような疑問がはいりこむのだろう。 例えば後ほど層でないことがわかるのだがここでの主人公とヒロインのどちらか、もしくは両方が聾唖者なのだろうかというようなことが続きそれがこの映画の意図なのか、青年の過去が一切示されない理由はなんなのか、幾つか入った家で煮炊きする材料は自分たちで仕入れてきたものなのだろうか。 青年のゴルフの技術と少なくとも本作のなかで示される多少の執着はどこからきているのだろうか、牢獄に収監されてその中で徐々に自分の気配を消していくところには果たして「気」や「老荘思想」に関係があるのだろうか、自分の気配を消す努力の途中で見せる端正な足の運び、それに対して不気味な目の周りの隈の精神性は、等々、これらの画像ファンタジーを導くエピソードであり主役をよりファンタジーの高みに送り出す撮り方なのだろう。

想像力の乏しい私にはファンタジー映画は苦手だ。 現実的な論理の齟齬をファンタジー性で飛び越えたり溝に接着材としてファンタジーが使われると戸惑ってしまうし時には興ざめさえする。 データベースには「静謐な愛の寓話」とあるのだが最終的にここでの愛の到達点がいわゆる「不倫」容認なり現実逃避目的の「ファンタジー」構築に帰着するのではないのかという藪にらみ的な想像さえしてしまう結果だったのだ。 それがアジア的なのかどうかしらないし、現実逃避の道具としてファンタジーが使われダブルバインドの現実を生きてそれを許容するアジアの寛容さに、通俗映画的帰結には落ち着かない本作がヴェネチアで評価をうけたのかもしれないがオランダテレビガイド選考者が本作に2つ星しかつけなかった理由はなんだったのだろうか。 一般にオランダ人の想像力は論理の方に向かい、ラテン文化の中での見方とはかなり違ったものであるからいくら文化の違いが大きいといってもこの100年ほどで徐々にその幅の距離が縮まっている中、それでは私が星をあと2つ加えて橋渡しをしようという気はなく、その溝の幅と深さをただその縁に立って眺めているだけである。

このデジログへのコメント

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントを書く

同じ趣味の友達を探そう♪

  • 新規会員登録(無料)

プロフィール

ヴォーゲル

  • メールを送信する
<2009年02月>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28