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いい話…福祉の父、納得(素敵な人の話)。
2011年09月21日 13:51
【児童福祉の父】
明治20年、岡山から5里ほど東南に離れた上阿知に石井十次という医師として勉強中の青年がいた。
十次が手伝いに行っている診療所の隣にはお大師堂があり、いつも巡礼者や身寄りのない人が寝泊まりしていた。
その年の4月のある朝、いつものように十次が大師堂をのぞいてみると、
二人の子供を連れた女性のお遍路さんがいた。
話を聞くと、その女性は生活が厳しくて借金も重なり、
とても暮らしていけないので仕方なく親子5人で巡礼の旅に出たけれども、
途中で主人と一番上の娘を病気で亡くしたという。
そして彼に頼みました。
「子供一人であれば、どこかの家に雇われて暮らしていけなくもないけれど、
子供が二人もいては嫌がられて雇ってくれません。
下の子は体が不自由なので、上の子だけでも預かってくれませんか」
十次は心を痛め、悩んだ末、上の子供を預かることにした。
このことがきっかけとなり、十次は周囲の反対を押し切って医学の道よりも親のない子供を救うための道を選ぶ。
そうして「岡山孤児院」を開設した。
22歳の時であった。
明治24年10月、中部地方一帯にわたる濃尾大地震が起き、このとき多くの人命が失われ、
多くの子供が親を失ったが、十次はいち早くそうした子供たちを引き取った。
明治37年の日露戦争による戦争孤児、翌年秋に東北地方を襲った大凶作、
こうした生活に苦しむ家庭の子供たちや親のない子供を、何の条件も付けずに引き受けた。
こうして「岡山孤児院」は、当時、世界でも屈指の収容人数である1200人もの子供を預かっていたのです。
子供達を食べさせるだけでなく
「社会に貢献する活力ある人物を輩出せしむる」
という十次の信念のもと、
職業訓練をかねた活版部、理髪部、機織り部などの事業部をつくり、
自分たちの力だけで生活できるよう目指した。
なかでも、施設の宣伝のために結成された「音楽幻灯隊」は、各地で好評を博した。
彼は施設を、「教育院にして養育院にあらず」と述べている。
こうした仕事に一生をささげ、後に「児童福祉の父」と呼ばれるようになった。
十次の子供たちに対する深い愛情が今なお息づいている。
(HP・伝えたいふるさとの100話より)
凄いね♪
自分のやりたかった医学の道ではなく、目の前のことを懸命にやった結果(*^^*)
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