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知人を送る

2009年01月17日 10:45

知人を送る

2009年 1月13日 (火)


年賀状の返事に混じってグレーの封筒に入った知人の訃報が届き、彼女葬儀は11時に始まると書かれていた。 

ゼーランド州の州都ミドルブルグの墓地の一角にある斎場まで200km、普通なら1時間半ほどで走れるのだが途中にロッテルダムなどの都市部を通るのでその時のラッシュ考慮して3時間見ておき、やっと会場に車を入れたら5分前だった。 混雑するロビー大分向こうで人に挨拶している故人の連れ合いの他は顔見知りはいなかった。

多分そうだろう。 実際に故人と会って接するようになったのはこの10年ほどで家族がらみで遊んだり食事をしたり泊まったりしたのは4,5回程度だった。 それに彼女連れ合いとはこの30年弱のつきあいではあるものの、それも2年に一度会うか会わないかというような間柄だ。 享年72歳の、母親、おばあちゃん、私の知人の恋人パートナーである故人の葬儀場に集まるのは殆どが100人ほどの言葉少ない中年、老人であっても不思議ではない。 

このカップルの意思で宗教色をなくしたセレモニーは日の光を入れたクリーム色の簡素な広い空間の中、司会の女性が簡素な花を置いた棺を前に故人の孫娘を呼んでお婆ちゃんに捧げる詩を小学生少女が如何におばあさんが恋しいか涙ながら読み上げることで始まった。 故人とは1年半ほど前に我々がセーランド州で2週間ほど夏のバカンスを過したときに二人の家を訪れたり彼らが推奨のレストランに招待して一晩楽しく過したのが最後になっている。 その時にもこれまで何回もガンの手術を行い根絶したと病後の様子を話していたもののこの6週間ほど前に突然何の前触れもなく再発したのだった。 それも昔から小学校の優しい先生だったこともあり母親が仕事の間自分の孫娘たちと何時間も狐と狼の創作遊びをしていて、その最中に隠れていたテーブルの下で不測の事態に陥ってしまったのだから孫娘たちのショックと悲しみ方はひとしおだったに違いない。 

三週間ほど入院した病院はあまりにも即物的かつ人工的で自分の生を終えるところではないと自宅に戻り連れ合い義理息子、自分の娘に助けられ痛みもなく皆に見守られ静かに生を終えたのが4日前だったのだ。 彼女が自分で選んだという1915年あたりに作曲されたグルジア人の手になるコーラスが広いスペースに鳴っていた。 スラブ系のメロディーで悲しみを徐々にとても緩やかに変化させる中にも大地を響かせるかのような力強い響きも含まれて我々の深い悲しみから一気に覚醒させる効用もあるようでそれが故人のメッセージでもあるのだろうと忖度した。

何事にも穏やかに笑顔で接する故人と、私の約30年来オランダでの父親ともいえる水彩風景画家でもある故人の連れ合いは、私の車で葬儀後自宅に連れ帰った彼の息子二人と娘を交えた身内だけの午後に簡単な食事と故人の好んだポルトガル赤ワインフランスチーズを口にしながら四方山話になる頃には皆平静になりつつあったのだが、そこで二人そろって日本旅行を計画していた矢先のことで二人で奈良京都、それから中国地方を周れない残念さを老画家はついこの間彼女が息を引き取って今は整えられたベッドが置いてある居間で自分の子供達、孫を含めた家族の前で涙を流したのだが、けれどその二階のアトリエには1年半前にわたしも観た、彼女がベッドにうつぶせに横たわる彼女の大きな裸像が今となっては温厚な彼女を偲ばせる唯一の作品になったとそこでもまた2,3年前のその絵も出品された画家の回顧展でにこやかに来客たちに対応していた故人の様子が思い出されて胸が詰まるような想いがしたのだった。

子供達、孫、私を送り出して一人きりになったうちでこれからの時間をゆっくりかみ締める老画家を残して我々はそれぞれの家に車を走らせた。 セーランドの広く暗い空間を横切って高速を一人戻ったのだが様々な事を考えるともなく車を走らせて自宅に着いたら行きの半分の時間だった。 夏に家族かもし子供達の都合が悪ければ家人と二人で花を携えてまた州都ミドルブルグを訪れようと思う。

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