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ネットの印象的な話:大久保選手
2014年06月25日 09:00
試合は終わってしまいましたが…書きます。
[大久保選手]
大久保選手のお父さんは、長い間、癌の闘病生活を続けていました。
2006年、W杯ドイツ大会の代表選出に大久保選手が落選した時も、すでに余命を宣告されているほどの重体だったのだといいます。
それでも、病の身体をおして、地元の九州・小倉から大阪まで、お父さんは、落ち込む息子を励ましに来てくれたのだそうです。
「もう歩くのもしんどそうやった。そんな状態が続いていたのに、おかんから『お父さんが大阪に行った』って連絡があったんよ。いや、いや、無理やで……って、思ったよね」当時を振り返って、大久保選手はそう語っています。
そして、遠い九州から大阪に駆けつけてくれた父の優しさに、「ああ、俺のことを心配して、来たんやな。ワールドカップで活躍する姿を、おとんに見せたかったな」と感じたそうです。
●2010年、代表選出されたW杯南アフリカ大会後の苦悩
2010年W杯南アフリカ大会、大久保選手は岡田ジャパンの主力として、1次リーグから全4試合に先発出場しました。
日本は決勝トーナメント初戦のパラグアイ戦で敗れ、ベスト16で大会を終えます。そして大会後、大久保選手は、病床の父をふくむ家族みんなに「俺、代表はこれで終わりにする。もういい……」と正直に伝えたのだそうです。
「本当にその時は、もう代表に行く気がなくなってしまったんです。代表選手はすごく忙しい。クラブでリーグ戦をこなして、みんなが休んでいる時には、代表の試合がある。そして、海外への移動でしょ。家族といる時間もない。忙しすぎて、嫌になった。」大久保選手はそう語ります。
しかし、お父さんは、病で声を出すのも苦しいはずなのに「お前は、バカか!」と大声で怒鳴り、諦めることを許さなかったのだといいます。
「おとんにすれば、普段のJリーグはテレビ(地上波)でやっていないから。代表の試合じゃないと、俺の試合を病室で見ることができなかったみたい。最後は『頑張って、代表に入ってくれよ』って、言ってたもんね」
●「俺にもしもの時があっても、試合を優先しろ」
そんな大久保選手のお父さんが亡くなったのは、2013年5月12日。
お父さんが危篤の状態に陥ってからも、大久保選手は実家に帰ることなく、プレーを続けていました。
それは、お父さんに何度も言われた、「俺にもしもの時があっても、試合を優先しろ。それがプロというもんや」という言葉があったからでした。
そして迎えた5月11日。後半28分にはPKを決め、その10分後には流れの中から2ゴール目。見事「おとんに捧ぐゴール」を決めた大久保選手は、試合終了後、急いでお父さんのもとに駆けつけました。
「おとん、来たよ。ゴール取ったよ」そう大久保選手が語りかけると、それまで意識がなかったはずのお父さんは、「お~。嘉人、来たのか~」と奇跡的に返事を返しました。
大久保選手は、こぼれる涙を抑えきれなかったといいます。
翌5月12日、13時33分。お父さんは、長い闘病生活を終え、亡くなりました。
「ガンバレ大久保嘉人」
父の遺書は、そんな一言から始まっていました。
●そして2014年、W杯ブラジル大会に代表選出!
父の死後、大久保選手は、精力的なプレーをしつづけています。
2013年7月15日、J1第16節浦和レッズ戦でJ1通算100ゴールを達成。
「川崎フロンターレ」に移籍後1年で、キャリア最多の26得点を記録し得点王に輝きました。
日本代表へ選ばれたいという気持ちも、強くなってきているのだといいます。
「また戻りたいね。今、選ばれたいっていう思いが、すごくある。前に代表にいた時より余裕があるから。試合をしていても、それを感じる。代表でやりたいという思いは、相当に強くなっている」
そして、2014年5月12日、発表されたW杯ブラジル大会の代表メンバーの中には、「大久保嘉人」の名前がしっかりとありました。
見事、代表メンバーの座を獲得したのです!
このウラログへのコメント
もしかして、川崎サポですか?
Kiyoshiさん:違いますたまたまネットで見つけただけなので
一流のプレーヤーは
父親も一流の父親ですね
(  ̄▽ ̄)
SYUZO-さん:ですね親が素敵だから子供もそうなんだと思います
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