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ネットの印象的な話
2014年02月14日 05:20
[日本初のオリンピック出場マラソン選手の金栗四三]
金栗四三は、国内で世界記録を20分以上も塗り替えるような記録を出しながらも、本大会では日射病で倒れ、行方不明扱いにされてしまった。
日本の期待を一心に背負いながら、それでも走りきれなかったことで、深い自責の念に駆られた。
それでも日本のマラソンの発展のために50年間尽くしてきました。
1967年、ストックホルムオリンピック委員会から「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないかという連絡が届いた。
式典後、当時のコースを懐かしげに辿る金栗。
そして55年前にたどり着けなかったスタジアムに足を踏み入れました。
何故かそこには観衆と役員、そしてゴールテープ。
思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った金栗。
『日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました』
[元プロ野球選手:村田兆治の話]
村田兆治が原因不明の右肘の痛みで何年も苦しんでいた時に、村田の父親が危篤に陥ってしまった。
村田が急いで父親の元へ駆けつけると、それまで昏睡状態だった父親が目を覚まし、「兆治、わしの右腕をやる。だから頑張れ」と、苦しい息の中で村田に言ったという。
村田は父親のその気持ちが嬉しくて涙が止まらなかったそうです。
父親は他界したが、その気持ちが通じたのか、村田は名医ジョーブ博士の手術により右肘の痛みを完治する事が出来、見事に復活を遂げた。
[水城高校]
山野さんご自身は、かつて水戸一高の高校球児で、大学では野球はやらなかったそうですが、その後高校教師となり、ある若かりし時、水戸南高校に赴任したそうです。
水戸南高校というのは、定時制・通信制の高校だそうですが、定時制・通信制にしては珍しく、硬式の野球部がありました。
ただ、山野さんが水戸南高校に赴任した当初は、野球部の監督も他にいましたし、山野さん自身ももう野球に携わる気持ちは無かったんだそうです。
ところが、その野球部の監督をしていた先生が転勤になてしまい、学校の中で野球部の監督をできそうな人は、山野さんだけという状況に。
山野さんは、皆から懇願され、監督を引き受けることにしたのです。
しかし、監督を引き受けたものの、当時の水戸南高校の野球部は、ハッキリ言ってかなりの弱小チーム。
トスバッティングはおろか、キャッチボールもままならず、更に、部員達のグローブも軟式用だったり、ボールもボロボロのものが20個あるだけという、そんな状況だったそうで、もう硬式野球をやるようなレベルではなかったんだそうです。
ただ、そうした中でも、選手達はとても必死でした。
朝5時に起きて一日立ち仕事をし、夕方から授業を受けて、夜の9時から11時まで練習をする。
そして、ヘトヘトになって帰り、また次の朝5時に起きて仕事に行くのです。
そんな選手達の姿を見て、ある日、山野さんはこう思ったそうです。
「何でコイツらはこんな辛い思いをして、毎日硬式野球を続けるんだろうか?勝ちたいからなのか?それとも、単純に野球が好きだからなのか?」
前任監督の義理だけで、グランドに立つ自分が、正直辛かったのです。
そして、山野さんは満を持して選手達に問いかけてみました。
「お前ら何で硬式なんだ?今まで野球やったことあんのか?金もかかるから軟式で良いんじゃねえのか?」
その問に対する選手たちの答えに、山野さんはとんでもないショックを受けました。
「硬式野球は、夏の大会の前には、出場各校の部員全員の名前が新聞に載ります。又、球場に行けば写真入りの冊子に自分が載ります。軟式は分からないけど、硬式は確実に載るんです。だから、僕たちは硬式野球で頑張っているんです」
山野さんは、最初聞いた時は、何を言っているのか意味が分かりませんでした。
しかし、その答えは、他の選手に聞いてみても同じ。
そこで、山野さんはもう少し選手に聞いてみました。
山野さん「どうして新聞や冊子に名前が載るのが良いんだ?そんなに載りたいのか?」
選手たち:「父ちゃんか母ちゃんが新聞や冊子を見て、俺の名前を見つけてくれるかもしれないと思って」
そう。実は、この水戸南高校の選手達の多くは、近くの孤児施設出身の子供達だったのです。
顔も知らない、記憶にも無い親に会えるかも知れない大きなチャンスが、この夏の甲子園の県予選だったのです。
そんなことも知らず、自身は硬式野球のレベルのことを考えたり、義理でグランドに立っていた自分が情けなくなり、自分を恥じたそうです。
それからというもの、山野さんは母校関係者からボールを掻き集め、朝練も始めました。
そして、それでもはまともなユニフォームも無かったので寄付をお願いし、背番号は墨で書いたそうです。
当然ながら、夜の練習にもより一層熱が入りました。
その夏、水戸南高校は、0-38で1回戦で敗れてしまいました。
しかし、山野さんは恥じる気持ちなど一切なく、選手達をとても誇らしく思ったそうです。
この体験が、この現・水城高校校長である山野さんの原点。
『野球はすべてを結集させる』という信念が生まれた瞬間でした。
そしてその後も、山野さんは荒廃し、野球部も休部状態だったような高校を、野球の力を使って立て直したり、その信念を貫き通して、ここまでやってきたのです。
そして、自身が校長を務める水城高校で、初の甲子園出場を果たしました。
このウラログへのコメント
マサカリ投法
村田兆治の話は
有名ですね
僕も知ってました
(^^)
SYUZO-さん:流石ですやっぱり有名な話なんですね
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