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「エロ事師たち」人類学入門; 見た映画 May ’06

2006年05月18日 09:21

エロ事師たち」人類学入門

製作=今村プロ 配給=日活
1966年   白黒ワイド 129分

企画 友田二郎
監督今村昌平
脚本今村昌平沼田幸二
原作野坂昭如
音楽黛敏郎

出演:小沢昭一坂本スミ子/近藤正臣佐川啓子/田中春男/中野伸逸/菅井一郎/園佳也子殿山泰司浜村純/ミヤコ蝶々中村雁治郎/菅井きん

原作はもう何年も前に読んでいたし、学生の頃から野坂昭如には馴染み深く、日本文学の性を扱う分野においては戦後風俗を語を語る上では不可欠であろうが、戯作の質ゆえに純文学を語るときには外されがちだし、それをまともに語る人材資質も多いとはいえない。 さらに、関西の言葉で性を描いた文学はほかにあったろうか。 関西の言葉は現代では、も、といおうか、お笑い、猥雑とからめて語られることが多いのだが、その猥雑さの中にある温度と哀れを感得する資質は簡単に見過ごされがちである。

谷崎が芦屋に越してきたのは「細雪」を執筆することがきっかけで、谷崎の官能は野坂とは大きく違うものだが、しかし関東から越してきて惹かれたという言葉、とりわけ選んだ山手の言葉と守口あたりの野坂の言葉では代表する世界の違いもそれぞれの作品世界に相関している。

テレビの興隆期に売れっ子ライターとしてその世界を充分知り尽くし、またそこにうたかたの感をもった野坂が処女小説として世に出した小説は、エロ写真エロフィルム製作、その上映、そのほかのプロモーション、果てはハイテク性具の研究、製作、と当時の欲望メディア産業を描写するさまは現在から40年前ということを考えると、今ある、興隆をきわめ、さらに留まるところを知らないインターネーットで雑草のようにはびこるDVDを筆頭にアダルト産業に、時代を超えてつながっている点で、この映画のタイトルが充分納得できるものである。 社会学人類学考察に充分貢献する資料となるし、本来の学問の対象、欲、悪、人間の考察にも悦楽が我々をその猥雑世界の悲哀に誘うのである。

もう随分昔から様々に野坂の作品を愛読し、現代でこの関西弁文学の系譜に繋がる作家、色の方はさらっと描き少々毛色が違うがその語り口とテンポで、元パンク歌手詩人町田康に期待しているのだが爆笑を誘う戯作という点では系譜上にあるのだろうが、いわゆる好色文学という点では、まして官能小説、という点では、本人がそれはおかど違いだと言うかもしれない。

その官能世界を独自の粘度でみせる今村昌平のこの映画は、野坂の原作を基にしているのだが明らかに映像の優位を誇っている。 おもしろいとおもった事は様々に現れる透明な水槽に入った「大きな鮒」のイメージと使用法である。 今村の作品はいくつか見ているが、初めに大きな感銘を受けたのが「神々の深き欲望」であり、主人公の沖山秀子の存在である。 「復讐するは我にあり」では小川真由美であり、「にっぽん昆虫記」では左幸子、ここでは鮒の鈍重な、まるでぬめる淡水魚の臭気が充満するような空間の向こうに喘ぐ坂本スミ子である。 坂本歌手としての訓練から出る官能の肉声、それも今どれぐらいがこの味のある言葉を喋るのか、多分それは只単に言葉だけではなくその生活する世界の、文化人類学表象としての言語であるのだろうからこの語られる基盤が資料としてのCDROMの中だけにしか見つけられないものであるのかもしれない。 音声、映像をもって描かれた官能の世界は明らかに今村のものである。 「鮒」がこのように写されたとき、後年の「うなぎ」と明らかに繋がっているのが感得された。 

それに輪をかけて興味深いのは現代アダルト産業の、多分、中核を占めるであろう年代に、ここで相対化できるのは主人公の義娘の中学生である。 話し方もその生態もまことに今風、現代的であるのだが、明らかに60年代の時代の顔をもっていることでもある。 インターネットに現れる顔をながめてみるといい、あきらかにそれらは現代の顔であり、ここでは60年代の顔がある。 それに、映画当初の声、関東アクセントのまじる関西弁科白に一番自然な印象をもったのがこの少女の言葉である。 

小沢昭一は気に入りの芸能家で、学生の時分に「陰学探検」「日本の放浪芸」という著作に目を通した記憶があり、「小沢昭一こころ」は日本にいない分こちらでCDで聴いている。 彼に加えてここでの今村組の名優たちは登場するだけで顔が緩む。 ミヤコ蝶々の姿はまことに懐かしいし、それが60年代中頃の心斎橋筋、京橋駅付近、運河空港に近い住宅などが現れると私の少年時代の記憶に重なり40年後の変わりように改めて深い感慨を覚える。 

中村雁治郎の存在はそれだけで世界を持つ。 その人、彼自身が映画のフィルムに定着されてまさに時分の体験がそこにあらわされる、芸人の肥やしを追体験するが如くの贅沢な役柄である。 言葉のトーンはかけがえの無いものである。ここでは50歳を越えていると見えるがこれから30年以上たっても艶福で皆を喜ばせた人の現役ぶりはスブヤンの頬を緩めさせるものだろう。

私の文は艶もなければ猥もないが雑だけはあると思う。 関西の文化になると頭に血が昇って舌がもつれる。

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