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回顧すること (1) 音楽; ジャズ

2006年05月15日 04:33

ちょっと大げさなことをいうと、私の人生はジャズに救われた、といってもいい。

いいかげんな学生生活をしているときに生活の指針を与えられたのはこの音楽だった、ジャズである。 それは自分の逡巡しているときに背中を押してくれるものとなったからなのだと思う。 そうでないかも知れぬ、それはこちらで今思うことで、只単に背中を押してくれるものを自分が当時欲していたということなのだろう。 ジャズはそんなことは忖度しない。 そこに在っただけだ。

それまでの学業、書き物、美術館で示されるものなどに接し、日頃の生活、人間関係のなかで、ああでもないこうでもない、とまわりの知恵に従って世界を理解しようとしてきたし今もその態度は持ち続けているし、これからもそうでありたい。 音楽は私の子供の頃からいつもあった。 自分で演奏してみる、手に触れて音を出す、というようなことも少しはやったが系統的、持続的に続けるということにはならず、結局ものにはならないでもっぱら聞く側に落ち着いた。 何をどう聴くか。

少年のころからアメリカのポップ、ビートルズフォークソング、ロック、おざなりのクラシックを経験しつつ、盆踊り、祭りの肉体性も静かに血の中に納まっている。 大学に入りジャズに浸った。 若者スノビズムもあったのだろう。 なぜそうだったかということはこれからも思い出して行きたいと思うのが、そうすることで音楽の持つ意味を知るということに至れるかも知れぬ。 

当時、音楽というより生きる指針としてもの、止むに止まれぬ表現という意味で受け取っていたのだとおもう。 当時、分からないままに時を過す自分に伴走するものとして響いたのではないかと想像する。 心地よい音は世界に満ちている。 われわれを慰撫するものは古今作られ続けているし満ちている。 時に応じては我々はそこで立ち止まったり浸ったり居続けたりして時を過す。

ジャズ、といってもさまざまなジャンルがあり、ジャンルというならそれはジャズに限らない。 どんなものごとでも同じことである。 道楽、趣味、学業、仕事、あまた限りが無い。 そしてわれわれはその中で時間を過しそれぞれそこで何かにひっかかり捉われたり離れたりする。 そのなかで引っかかった、とか野、土にはまった、お落ちた、とかも言える。 時には忌み嫌われるものの豊穣さ、といえば横道にはまったことのリスクでぞろ目がでて救われた、ということかもしれぬ。

意識、無意識を問わず、試行錯誤で無明の闇を彷徨うときに、向こうに見える光に誘われて踏み出すことの危なさを感覚的に悟ったのだろう、当時二十歳を越した青年が。 そういう時だった。 これから何をどうするかの思案時だった。

分からない音の中に何かを見たのだろう。 それが運の尽き。

ジャズよりほかに神はなし、といった人がいた。 私には神はいらない。

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