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『定家明月記私抄』その4

2009年04月26日 14:27

承前

堀田善衛は「後鳥羽院・大遊戯人間」と題した項で、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を引き合いに出してくる。この『定家明月記私抄』を読んでいて、面白いと思い、ワクワクするというのは、こういう所である。



小生は残念ながら、『ホモ・ルーデンス』を読んではいない、しかし、存在は知っている、というより学生時代ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は読んだ。そこで、中公文庫の『ホモ・ルーデンス』も読むつもりで入手。しかし、あれから40年近く。未だに読めていない。



さて、『定家明月記私抄』にもどろう、


ところで宮廷に和歌所を設置するということ、このことの文化的意義、また世界史的な視野のなかにこれを置いてみるについて役立ち、かつ普遍的に詩作とは何かを考えるについても役に立つものは、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス遊戯人間)』であろうと思う〈訳は高橋英夫氏〉


詩作(ポイエーシス)とは、一つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行われる。(中略)そこで物事は〈日常生活〉のなかにあった時とは異なった相貌を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。(中略)それは真面目を超越した彼岸に立っている。〈中略〉夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。」
遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を締め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差支えないからである。」
「文化は、全体としてますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れ合いを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行を共にするように見える。しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華かな、高貴な遊戯の砦として残っているもの、それが詩なのである。」

詩作(ポイエーシス)とは、一つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行われる。(中略)そこで物事は〈日常生活〉のなかにあった時とは異なった相貌を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。(中略)それは真面目を超越した彼岸に立っている。〈中略〉夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。」
遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を締め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差支えないからである。」
「文化は、全体としてますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れ合いを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行を共にするように見える。しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華かな、高貴な遊戯の砦として残っているもの、それが詩なのである。」

詩とは学識の夢のごときものであることなどは、平安末期鎌倉初期の後鳥羽院宮廷においてほとんど世界的典型であり、後鳥羽院その人もまた遊戯人間(ホモ・ルーデンス)の典型的存在である。/かくて、言うまでもなく「色好み」の恋愛もまた広義の遊戯のなかに含まれ、されば失恋をして「真面目に」、たとえば自殺をするなどというのは遊戯ルール違反である。
しかもそのことは、鎌倉権力志向の武士たちが「全体としてますます真面目なものに」なって行こうとし、殺伐さと真面目とがほとんど同義語になりかけ、云々・・・。



遊戯と真面目との関係を見事に捉えていると思う。誤解なきように繰り返すが、遊戯のなかに真面目は含まれているのであることを念のため申し添えておく。
遊戯>真面目】である。

それで、思い出したのが映画『上流社会』である。

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