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「定家明月記私抄」その5

2009年05月05日 09:02

三躰和歌、「大キニフトキ歌(春夏)。からび(やせすごき由也云々)秋冬。艶躰(恋、旅)」などという、今日の感性ではすでに、到底何がフトキであって、どれがからびであり、艶躰というからには艶ならざるものがどこにあるかどうかをさえ判別しがたいところまで達しえているのである。わかったような顔をしてみても仕方はないであろう。多くの研究書などでその別を論じたものを読んでみても、納得出来たためしがないのである。八百年近くをへだてた京都の狭小な、創作者と鑑賞者とがほとんど零距離の一社会にあった、微妙極まりない美意識の漂流が今日のわれわれに直かに伝わりえないとしても、それは、私は諦めるより仕方はないであろうと思っている。繰りかえす、わかったような顔をしてみてもはじまらないのである。

と、述べ次の2首を、例に挙げる。それは、・・・

白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く 定家
面影の霞める月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に    俊成卿女

などの、感覚浮遊の極点と言うべく(中略)その定着において彫金のような、金属的な冷たさをもあわせもつ作歌の、その極端な(中略)洗練というものが、如何にもと感得をされればそれで足りるであろうと私は思っている。

続けて、堀田善衛はこう書く、・・・

言語を駆使しての芸が、かくも過度かつ極度なところにまで達し得ることが出来た例は、他に求めることが出来ない。

とまで、言い切っている。

例えば、この、2首に見られる緊張感は、日本語のもつ独特の緊張感であると思う。ここに見られる文語文独特の切り詰めたまでの短さは、今の日本語では表せないものだが、短歌などの詩の世界にはまだ残っているものかも知れない。

蛇足・・・、短歌は三十一文字(みそひともじ)五七五七七であることから、
「白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」を、
「白妙の 袖の別れに 露落ちて 身にしむ色の 秋風ぞ吹く」このように五七五七七と分けて書かれたものを見かけることがあるが、作者が意識して(表現上の必然として)分かち書きをしていない限り、分けて書くことは厳禁である。
分けて書かれることで、その詩〈歌や句〉の持つ緊張感が全く失われることになる。
老婆心ながら、付け加えておく。

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