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定家明月記 その3

2009年04月25日 22:23

定家の時代は、和歌など芸術〈文化)が究極の洗練の域に達した時代であったようだ。そのようになれば、その反動は起こらざるを得ない。

後白河法皇が、遊女でも白拍子でも、どうやら大陸経由で日本へまわって来たジプシーであるらしい傀儡師でも、一芸の者はすぐにも院へ入れて楽しんだ。

なおこの法皇に関してもう一つのことを付け加えておこう。後白河は日本の代表的春画の絵巻物『小柴垣草紙』というものの、説明文章の筆者と伝えられている。

和歌もまた鞠などと同じく宮廷の芸の一つである。/しかしそれだけの歴史的背景があるからといっても、宮廷が流行歌パトロンとなるということは、下庶民の芸能を愛し、と解すれば聞こえもよかろうが、それは逆に言えば社会の上層部が精神的に貧しくなり、文化創造の力がなくなって来ていることを意味する(中略)定家の生きた時代は、そういう一つの文化危機の状況にあったのである。

その極致の例として、

鳥羽がこの年(承元元年=1207年)にまたまた新造した白河新御堂御所は、実は御所そのものよりも、定家等が障子絵と歌を書こうとしている、付属の最勝四天王院御堂の方が重要なのである。

定家もまたこの名所御障子和歌を四十六首詠んでいる。畿内だけならばともかくも、阿武隈川塩竈ノ浦まで、見たこともないところを絵に描き歌をつくる--後の後鳥羽院の評に言う「ただ、ことばすがたの艶にやさしきを本体とせる間」ということになる--、言語のしらべだけで成立する芸術の極限であろう。現実の所見とか実情とかということは、後世の芭蕉など浮浪の徒にまかせておけばよいのである。



幾分この例とは違うとは思うが、只今のわが国の総理漫画好きや、新聞記者などに若いモデルの名前を応えさせるという行為は、まさに【下庶民の芸能を愛し、と解すれば聞こえもよかろうが、それは逆に言えば社会の上層部が精神的に貧しくなり、文化創造の力がなくなって来ていることを意味する】では、なかろうか。ろくに漢字も読めないお方であるから、已むを得ないことと思うほかないのであろうか?

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