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【プロレスラー三沢光晴選手 死去】 (続報)

2009年06月15日 09:47

【プロレスラー三沢光晴選手 死去】 (続報)

少しでも多くの方に、このログを読んでもらいたいです。

新聞テレビの報道でご存知の方も多いかと思いますが、タイトルのとおり、プロレス団体プロレスリング・ノア」の社長プロレスラー三沢光晴氏が、13日の同団体が広島県立総合体育館で開催した試合中に、対戦相手の技を受けて頭部を強打して亡くなりました。享年46歳。


【会場は騒然】

ノアの公式携帯サイト関係者によると、三沢選手は普段と違いふらつき気味で、試合中に頭を振っていたという。

対戦相手のバックドロップ(背後から抱え上げられ、後頭部からマットに叩きつけられる技)を食らった直後から動かなくなった。異変を察知したレフリーが試合を止める。

仲間のレスラー救急隊員が心臓マッサージ自動体外式除細動器AED)を使い蘇生措置を施したが、三沢選手は動かなかった。

この間、リングサイドからは「三沢三沢」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は、騒然とした状態が続いた。

救急隊員が駆けつけた時、付き添ったリングドクターは「頚椎(けいつい)損傷の疑いがある」と説明。救急隊員は心肺停止を確認し、意識不明のまま広島市内の病院に搬送されたが、同日午後10時10分に死亡が確認された。

同団体は、公式ホームページ訃報を掲載するとともに、14日開催の福岡博多ターレーン大会をはじめ、現在発表されている大会は予定どおり開催することを発表している。


【沈痛な面持ちで状況説明する百田副社長

14日開催のプロレスリング・ノア博多ターレーン大会開始前に、同団体副社長百田光雄氏が13日に急死した三沢光晴氏についてコメントした。

まずシリーズ中での悲劇とあり、今大会を含め中止も検討されたのではという問いには「三沢社長は常に満身創痍でやっていた。選手全員と話して『決行するべきでは』となった。三沢社長も(中止は)望んでいない」と強行開催に至る経緯を語った。

そして、死因に関しては「僕たちも医師から『不明』としか伝えられなかった。検査した結果、脳や頚ついにも損傷はないという話しを聞いた。ただ、医師からは『家族以外には死因は説明できない。たとえ会社の方にも説明はできないので、家族の方に説明します』と言われました。したがって会社の人間は、医師の方から一切死因に関しての説明は受けておりません」とコメントした。

三沢氏がこのような事態になる予兆はあったのかについては、「基本的に我慢強くて泣き言は言わなかった」としながらも、「多少『肩がキツイ』と言っていた」とかすかな異変はあったようだ。

なお、遺体はすでに東京に移送されており、葬儀は家族の意向により選手・近親者による密葬となる予定。ただ、ファンにはあらためてお別れを言う場を作りたいと語った。


三沢氏に追悼のゴング】

14日、予定通り博多ターレーン大会が開催された。

        ファンが早すぎる死を悼んだ。

満員の会場では第1試合の前に追悼のゴングが鳴らされ、三沢氏の入場曲とともに観客は一斉に「ミサワ」コールを送った。

百田光雄副社長は「(三沢社長は)満身創痍でもリングに上がった。遺志を継ぎたい。(ファンとの)お別れの場はつくらないといけない」と追悼イベントの開催を示唆した。

三沢氏が亡くなった試合でタッグを組んでいた潮崎豪氏は、「ああいうことがあって、きょう(14日)は試合ができないかと思った。でも、あんなことがあったからこそ、選手が一丸となってやっていかないといけない」

第2試合には前日のGHCタッグ選手権三沢氏の最後の相手を務めることになってしまった齋藤彰俊氏が登場。あふれ出る涙をこらえきれず、号泣しながら試合に臨んだ。

入場口に姿を現した齋藤氏の顔は、すでに泣きじゃくっていた。責任を痛感し表情は疲れきっているものの、それでも気丈に振舞おうと涙をこらえ、リングに向かう。そんな齋藤氏の姿に、会場からは大きな「アキトシ」コールが。
「彰俊泣くな!」「がんばれ!」とファンも涙声で必死に声援を送り、齋藤氏も何より三沢氏のために最後まで歯を食いしばって戦い抜いた。

試合後、齋藤氏リング上から本部席の三沢氏の遺影に向かって涙の土下座。ファンも痛いほど齋藤氏の気持ちは分かっており、拍手と歓声がいつまでも鳴り止まなかった。

バックステージで齋藤氏は「取り乱してすみません。泣いている場合じゃないんですけどね」とコメント。そして「自分はどんなに重くて大きい十字架でも背負って、前進して、精進していきます!」と力強く天国三沢氏に約束した。


関係者に広がる波紋】

福澤朗キャスターが14日、出演した日テレ系「真相報道バンキャ!」で「無念であります」と突然の別れを惜しんだ。

同局系「全日本プロレス中継」で三沢氏の幾多の名場面を実況し、同世代として苦楽を共にした福澤キャスターは、動揺を抑えながら訃報(ふほう)を伝え「誠実な人柄で多方面から人望の厚い方でした。私も公私に渡りお世話になりました。謹んでご冥福をお祈り致します」と沈痛な表情で語った。


かつて同中継の実況を担当した徳光和夫アナウンサーも、日テレ系「The サンデー NEXT」の放送で「あんなに受け身がうまかった三沢選手がどうして・・・最期を伝えなければならないのが大変悲しく、残念でなりません」と言葉を詰まらせた。


【「The サンデー NEXT」で、放映された映像です】
(アクシデント直後の映像も含まれています。)
https://www.youtube.com/watch?v=UfL9Ohve1lM
https://www.youtube.com/watch?v=RD01F7juFN8



     まさかの事態にマット界は驚きを隠せない。


新日本プロレス蝶野正洋氏は「三沢光晴氏の突然の訃報、驚きと悲しみにたえません。御家族、関係者御一同、三沢光晴氏ファンの皆様に、心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします」と、ブログを通じて哀悼の意を表した。


14日の新日本後楽園ホール大会では試合開始前に1分間の黙祷が捧げられ、団体交流戦に参戦中のノア所属の菊地毅氏、青木篤志氏がリングに上がると、新日本の選手・関係者たちが周りを取り囲んで三沢氏の冥福を祈った。

黙祷中は客席のあちこちからすすり泣きの声が上がり、黙祷が終わると、観客が「三沢ーっ!」「社長、何でなんだよ!」と絶叫。あまりにも早すぎる死を悔やんだ。

また、菊地氏、青木氏がリングに上がると、普段はブーイングで敵意をムキ出しにする新日本サポーターズもこの日ばかりはあたたかい声援を送り、社長を突然失った2人に励ましの言葉を送った。

選手たちは腕や手首に黒のテーピングで喪章を巻いてファイトし、ノアの旗揚げメンバーであった垣原賢人氏も背広に喪章をつけてスーパーJr.表彰式に登壇。偉大なるプロレスラーに哀悼の意を示した。


初代タイガーマスクとして活躍した格闘家佐山サトル氏は「プロレス結晶が、また消えてしまった」と語る。
昨年の12月に2代目である三沢氏と初めての「タイガー対決」が実現。
「今から思えば、それがせめてものこと。2人とも年をとって体も重くなってしまっていたが、でもまだまだやれると確認し合ったばかりなのに・・・」


足利工大付高レスリング部の後輩で、三沢氏がノアを旗揚げした際には、全日本に残留して団体を支えた川田利明氏(フリー)は「信じたくないし、信じられない。それしか言えないです」と言葉少な。


全日本プロレス代表取締役社長で、三沢氏と並ぶ人気・実力を誇るプロレスラー武藤敬司氏も自身のオフィシャルブログで哀悼の意を表した。

ブログには「プロレスリング・ノア三澤光晴氏の思いがけない訃報に、驚きと深い悲しみをおさえることができません。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と、驚きを隠せない様子が綴られている。

武藤氏は三沢氏とタッグマッチで何度か対戦。タッグを組んだこともあったが、プロレスファンが一番望んだ三沢vs武藤の“夢”のシングルマッチは実現されないまま、幻となってしまった。


K-1プロデューサー谷川貞治氏は「言葉が浮かんでこない」と、ぼう然。「経営者として同じ立場の人間としてみていた。地上波打ち切りなど、いろんな問題があったと思う。心労も重なって、気持ちは痛いほど分かる。本当に残念」とした。


馬場氏の指導を受け成長】

三沢選手は1981年に全日本プロレスデビューした。故ジャイアント馬場氏の指導を受けて成長し、2代目タイガーマスクとして人気を集めた。
マスクを脱いで本名に戻してからは、トップレスラーとして活躍した。
馬場氏が亡くなった後の2000年には、当時の全日本所属の選手を引き連れて独立し、新団体ノアを旗揚げ
社長を兼任しながらトップレスラーとして戦い続けた。

(2009年6月14日,15日:日刊スポーツオリコンライフスポーツナビスポーツ報知より抜粋。)


【死因についての追加情報】
今朝のニュース報道によると「頸椎離断」との県警発表があったとのことです。


【笹パンダコメント

スポーツうるぐす」の三沢選手追悼コーナーを見て、涙が止まりませんでした・・・

パンダが初めて三沢選手を見たのは、試合中に自らタイガーマスクの覆面を剥ぎ取り、素顔で戦うという衝撃のシーンでした。

パンダ三沢選手の印象は、「インタビューの受け答えもそっけなく、あまり思い入れの出来ない選手だなぁ」というのが、率直な印象でした。

その後、川田利明氏、小橋建太氏、田上明氏らと「四天王」と呼ばれる時代がありました。
彼らの試合は、相手を垂直に落とす投げ技を繰り出し、なおかつ、それを受け流すというハイレベルな戦いでした。
試合時間も30分を越える激闘が常でした。

でも、気がつけば、戦いの渦の中心には三沢選手がいたのです。

無骨で親分肌の三沢選手の性格が分かり、すっかりファンになりました。
やがて、笹パンダテレビブラウン管越しから、会場へのライブ観戦へと導いたのも三沢選手の存在が大きかったです。
学生時代から社会人になっても、笹パンダの生活の中心は、10年近く「プロレスオンリーでした。

       しかし、反論もありました。

一般人から見れば
 「『後頭部痛打大会』としか見えない」
 「倒れている時間の方が長い」
  との厳しいご指摘もあったのも事実です。

でも、そんな言葉に笹パンダは噛み付きました。

    「三沢光晴を見よ!これがプロレスだ!」

三沢選手を表す言葉、それは・・・

          『不言実行』

新団体ノアの旗揚げに、ほとんどの選手がついて行ったことでも、その信頼の厚さが伺えます。

「受身の天才」とも言われた三沢選手が、なぜ受け損なってしまったのか?
パンダは、主に全日本時代が中心で、ノアの試合は旗揚げから1年くらいしか見ていないので、今回の事態には困惑しています。

  マット界の至宝が、またひとつ消えてしまいました。
        ご冥福をお祈りいたします。

【下記の動画は、三沢選手の入場テーマ曲(スパルタンX)に、試合動画をリンクさせた秀作です。】
https://www.youtube.com/watch?v=JAjN719ZxYA

このウラログへのコメント

  • 笹熊猫 尚輝 2009年06月15日 10:50

    > あおいさん
    同感です。
    彼は私の永遠のヒーローです。
    今後のプロレス界の行く末が心配です。

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