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長久手レポート

2005年06月27日 02:00

長久手レポート

万博のメイン会場は「長久手(ながくて)」である。
この長久手という場所が、これほどの脚光を浴びるのは、
小牧・長久手の戦い」以来の事であろう。

本能寺の変で、絶対的君主織田信長と その長男・信忠が倒れた後、
織田の重臣達は、自分達の これからの事を考えるために、
信長ゆかり清洲(きよす)城に集まって会議を開いた。

「信忠様の長男・三法師(さんぽうし)様を
 リーダーにして、みんなで頑張っていこう!」
と決定したが、実際には、幼い三法師の面倒を見のは羽柴秀吉であり、
次第に 権力秀吉に集中していった。

信長には何人も弟と子供がいたが、
優秀でないため、あまり有名な人はいない。

信長の次男・信雄(のぶかつ)が、待遇に不満を持ち、愚痴をこぼした。
信雄が頼った強い男の名は徳川家康
信長様のおかげで出世できたのに、
 その恩を忘れた羽柴秀吉は とんでもないヤツ!」
 徳川家康羽柴秀吉は戦うことになった。

こうして「小牧・長久手の戦い」が始まった。

軍事的に有利なのは秀吉軍であったが、
家康、得意の文通作戦が功を奏し、うかつに攻めることができなかった。
家康は各地の大名に手紙を書き、味方になるよう説得していた。

焦った秀吉軍は 池田恒興(つねおき)の発案の
家康が出てきたら、(家康の領地の)三河の国をチョコーンと攻めて、
 家康が あたふたしたところをドカーンと攻める」作戦に出た。

 が、家康は あたふたしなかった。 逆に池田恒興、戦死。

家康には勝てない事を知った秀吉は、
信雄と仲直りして、戦いを終わりにするのであった。

以上、長久手レポートでした。
次回は 戦国武将の誰について語りましょうかね?

・・・このペースでやっていくと、
 地球博の紹介になるまで、あと3ヶ月ぐらいかかりそうです。
 それだと地球博が終わってしまうので、次回から 地球レポートに入ります。

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