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月曜日と雨の日は

2006年05月24日 06:55

何か気分のすっきりしない日だった。

月曜日と雨の日は、という歌があったが、その物憂さに加え鬱陶しいことがいくつか重なった。 自分は迷信や信心というものを持たないが、こう小さいことがいくつか重なれば世間で人がいろいろいうことが分からないでもないという気持ちになりそうだ。

買い物に行くのに車で信号のカーブを曲がっていると途中でシグナルも何も示さないで無理やり目の前に割り込んで入ってくる中年の血走った目をした男の運転する小型車があったのだが心臓が止まるほど驚いた。 慌ててハンドルをきって事なきを得たがT字路で内側から割り込んでくることは違反である。 それでフラッシュライトで警告をしたら相手は謝るどころか逆にけしからぬ動作をする。 

もう35年以上色々なところで車を運転してきてこういう風なトラブルがいくつがあったけれど、実際に事故をおこしたり、殴りあいの諍いになったことはない。 よくこういことは色々なところで聞く。 趣味のクラブビールつまみとしては事欠かないが、幸いにして自分に今までそういうことははなかった。 けれど、もう一歩どちらかが踏み出していれば殴りあいになる、ということろには何回かいっている。 

一般にこういう場面で殴りあいの喧嘩になる時、オランダではそういうことを面白おかしくテレビ番組にしているものもあるのだがそういうこと自体日常的に起こるということなのだろう。事の善悪、どちらが正しい、どちらが違反をしたか、ということは両方が一旦頭に血が昇ってしまえばもう関係ないらしい。 まあ、そうだろう。 誰もが善良な市民であるし自分の持ち分を守り、それが犯されたら、また犯された、と感じたら当然怒る。 一方、意識無意識にかかわらず理不尽に相手の領分を侵したものは自分の非、というものを認めたくない、という防御本能とでも言うべきメカニズムが働き、相手に対して攻撃的になる契機になるらしく、一方、怒った被害者にはある程度の理由があるとしてもそういう加害者加害者候補、と対峙することになるから被害者の非に対する怒りが限度に達していればその場で簡単に殴りあいの喧嘩を招くということになるらしい。昨今、人々の素早い攻撃性、簡単に暴力に走りがちになる傾向はしばしばメディアで報道されているし時々他の事でそういうことを街中で見ることがある。

もちろん、こういう場合は殴ったほうに非がある。 けれど実際に殴られたほうがその被害を警察に訴え、証人の言葉を記し、、、、となると実際はよっぽどのことがなければ大事にならない。 たいていは腫れた瞼で2週間ほど周りのものから好奇の目で見られながら尋ねられ、それにぼそぼそ応えるということになるのがおちだ。

それに私が今日、これは殴りあいできないな、と思ったのはその男のまなざしだった。 時々、妙な目をした人間に出くわすことがある。 人は様々で日頃、我々は道行く人々をなんということもなしに眺め、通り過ぎ、その人々の内側に何が起こっているのか分かるはずもないし斟酌もしないし変わったことが無ければ見つめない。 けれど顔をみている、ながめている事はたしかだ。 けれど、わざわざ記憶もしないし、気にもとめない。 

私の住んでいる環境では会話の時には人は人の瞳をまっすぐ見て話し、道を歩いているときも人はたいてい景色を見るか物、犬、他人を見る。 まっすぐみるかそれとなく見るかには当然差がある。 それで、当然、人と見合うときは視線が交差する。 なんとなく視線を外すし、見つめる場合もある。 普通に対話、会話するときは相手に視線を合わすのが礼儀で、外すのは無礼となることもある。 自分にやましいことが無ければ何に憚ることがあろうか、ということでもある。 自分にやましいことがあれば、弱みがあれば目を逸らす、ということでもあろう。 勿論、極端に言えばの話であるがこういう習慣の国では見ること、見られることに対して注意が払われるのは当然のことである。 公私様々な場では見られているという他人の視線を計算に入れて行動することになる。 それに、こういう社会では「自然に」「あるがままに」ということがかなり口に上る。 これがいかに日頃、他人を計算に入れてふるまうか、他人の視線にとらわれているか、ということを示す例になるだろう。

もう50を越えてから自分の視線が広くなったように感じる。 それは賢くなった、とかものがよく見えるようになった、とかいうことではない。 自分の視線の強さが弱まり、その分拡散しているのかもしれない。 急ぐことがなくなっているのもその理由かもしれない。 日常の街角でも、あちこちでどこの誰かもわからない人たちと一言二言言葉を交わすことが増えている。 しかし、その言葉を交わす契機となるのは互いのまなざしの交換だろう。

10年前にはこういうことは起こらなかった。 人には言葉を掛けられやすい人と、掛けられにくい人があるようだ。 私の場合には後者のほうだろう。もっとも、中国人インドネシア人に間違えられ尋ねられることはしばしばだが。 尋ねられることに関しては以前から旅行先でさまざまな言葉で尋ねられ何で私が現地人に見えるのか分からないうちに大抵こちらから英語で答え短く会話をして別れるということになるのだがそれは別の話。

さて、視線の話で、この中年の乱暴なドラーバー、目の血走りようが普通ではない。 近頃はアムステルダムの中央駅に行くことがあるのだが、ほとんど表側に出ず、裏側のフェリー発着場にそった味気なく人気のすくない港沿いを利用するのだが、駅構内の表側と裏側ではほんの50mほどの違いなのだが人の数がまるで違う。 時々、心が病んだか、麻薬化学物質の影響なのか表情が普通で無い人を見ることがある。 こういう人にはあまり関わりになりたくないのだが、今日のドライバーはこの目つきをしていたのだ。 

人にはいろいろ事情があるのだろうが面倒なことだ。

これが今日鬱陶しく思ったことの小さい方の一つなのだが、そんな中で今日、家人の運転する車の助手席で街中を走っているときに窓からボソッと外を眺めていると信号で待っている女性が私に笑いかけて手を振っている。 一瞬、見知った顔であるのでこちらからも手を振ったのだが、一瞬に通過する風景の中でさて、それが誰だったか思い出せない。 こういうことはしばしばあり、小さな町であればさまざまところで見た顔に出くわす。 だから、その顔が自分の知り合いであるかどうかの保障はない。 鬱陶しい気分の消えないままその笑顔が誰のものかを思い出しているうちにそれがここ何年か通うプールに勤めていて何ヶ月前かに改築になったことでどんな理由かしらないけれど姿が消えていた受付のおばさんだった。

ま、その笑顔で今日の雨雲にも少しは隙間が出来て青空が覗いたような気がした。

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