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馬場文耕(?-宝暦八)

2015年11月03日 09:36

馬場文耕(?-宝暦八)

田沼時代を中心に、徳川時代には多くの戯作者が風刺的な作品を書き、お上に処罰されたものも少なからずいた。だからといって彼らがペンで剣と戦ったとか、
庶民の反骨精神を代表していたとか考えるのは早計である。当時戯作を書いていたのは、たとえばヒマ持て余した無役の旗本御家人だったり、
あるいは商家道楽息子だったり、でなければ諸藩から江戸にやって来て公費で遊んでいた留守居役の侍とかだった。農民と違って年貢を取られるわけでもなく、
磐石の徳川幕藩体制でこそ太平楽に生きていられた連中なのである。ただ読者を楽しませ自分が面白がるために文章を書いていたので、たいていギャグ不謹慎なほうが面白い
それだけのことだ。たぶん体制を転覆したいなどとは夢にも思わず、むしろ彼らこそ江戸時代永遠に続く事を願っていたのではないか。後世の進歩的文化人が期待するような、反体制権力の文士を強いて挙げるなら、馬場文耕くらいなものか。伝えられるところでは馬場文耕は伊予出身、本名中井左馬次のち文右衛門、一時出家したがまた還俗し、采女ヶ原で講釈師をはじめた。世相に取材した際どい作風で人気が出て、
大名屋敷に呼ばれ、そこでまたネタを仕入れてくるという具合で、しだいに武家社会の暴露話が増えてくる。代表作は「明君享保録」「秋田杉直物語」「当代江戸百化物」
など、のちの大岡政談のルーツになったものもある。彼の講談は筆記され貸本ルートで広く読まれもした。時代は享保改革のタガが外れて紊乱の一途をたどっていた。美濃・金森家郡上藩では苛斂誅求に耐えかねた百姓たちが史上最大級の一揆を起こし、
結束して江戸へ使者を送り幕府に直訴した。しかし藩はなおも激しい弾圧を続けた。実は老中勘定奉行も近隣の代官もみんな裏でつながって事件を隠していたのだった。
騒動をかぎつけた文耕はこれを「平かな森の雫」(現存せず)という講談に仕立てて世間に訴えた。巨悪の存在を洞察した九代将徳川家重の命により田沼意次捜査をはじめ、事件は解決へと動き出した。しかし文耕は幕府批判をやめず、家重への個人攻撃にまで及んだ。
言語障害とか小便公方とかいう通説はこいつが広めたらしい)田沼は百姓の言い分を聞き郡上藩を取り潰し汚職幕閣を一掃したが、さすがに将軍家への誹謗は許しておけない。「文耕吟味の時、当時の欠政を述、且今般金森家一件に付、私事の政治多く候などを罵しとかや」「乱心気違にあらず、正気也、各々こそ狂気者と見受たりとあざ笑ひたりと云」
文耕はなぜ坊主をやめて講釈師になったのか?なぜそこまで百姓たちに肩入れしたのか?何も分からないまま彼は宝暦八年十二月に獄門となった。それはそれとして、
この一件で名を高めた田沼はクビになった老中の相良領をそっくりもらい、大名出世した。ここからいわゆる田沼時代が始まるのである。

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