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書籍:なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか
2014年09月26日 23:24
■なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論
■小野雅彦(著)
織田信長は家柄や身分などを一切問わずに優秀と思われる人材を積極的に登用する「能力主義」を貫いた。
高すぎる目標を設定することで家臣同士を競わせた。
その結果、能力以上のものを発揮する家臣たちの働きによって、織田家の領土は飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大していき、信長も、またその家臣も大きな利益を手にした。
しかし、鮮烈な戦功争いが家臣間に軋轢を生み、重用していた家臣の反乱という思いもかけなかった事態によって、歯止めをかけられてしまった。
その跡をついだ豊臣秀吉は、「人たらし」の異名があるほど、人を自分の虜にさせることが上手かった。
金銀や領土といった分かりやすい褒美を分け与え、部下を鼓舞していた。
成果を出した者に惜しみなく褒美を与えることで、部下たちの「もっと、もっと」という欲望を喚起し、秀吉に対する「恩」のようなものを植え付けていったのである。
信長に比べれば、部下のマネジメントを意識していたように見える。
ところが秀吉は、後継者を育てることができないまま、この世を去った。
典型的な一大限りの組織で終わってしまったのである。
信長と秀吉の成功や失敗を目の当たりにしていたのが徳川家康だ。
強烈なリーダーシップのもと、トップダウンで組織を動かしてきた信長、秀吉に比べて、家康は組織というものをもっと俯瞰した目で見ていた。
部下を動かすために「命令」は必要だが、トップの思い描く結果を得るためだけの「命令」に対して、部下はついてくるのだろうかと疑問を持っていたと思われます。
家康が部下に求めたのは、ただ命令を遂行する実行力そのものというよりも、その命令にはどういう意味があるのか。何を目的にしているのか。そのためには何をしなければならないのか。
そうしたことを部下に考えさせ、自らの創意と工夫をさせる余地を残していたのではないでしょうか。
家康は部下に、目標や褒美だけではなく、部下に役割を与えたのだ。
部下の信頼を得ていた家康のマネジメント術を学べるのがこの本です。
現代のマネジメントの現場と直結連想できるよう、非常に読みやすく書かれています。
それでは特に参考になった話を紹介します。
●徳川家康は、三河国東部の吉田城に、家康の父である弘忠の時代から徳川家につかえている重臣・酒井忠次を置いた。忠次の部下には、三河東国東部の松平一族がそのまま与えられている。
一方、三河国西部には石川家成を置き、ここにも松平一族や国衆が配された。東西におかれた2人の家臣は、徳川家の軍事をつかさどる重要な役割を与えられたわけであるが、ここで注目すべきなのは、家康がこの地位に自分の一族を置かなかったことだ。
これは当然、忠次や家成の能力を高く買ってのこと。今でいう「能力主義」で抜擢したのである。
対して、この時代、家の重要ポストが主君の近親者で占められることは珍しいことではなかった。裏切りが当たり前の戦国時代にあって、少しでもリスクを減らすためには、血族で周囲を固めるのも危機管理の1つであったのだ。
たとえば、安芸の毛利元就は自身の子どもたちが側近であったし、薩摩の島津義久は、弟である義弘、義久、家久を重臣としていた。
現代でも社長の親族が役員に名を連ねているのは珍しいことではない。
親族が優秀であるならば、それも1つの人事として受け入れることもできるが、血縁にない一般の社員たちには、「昇進は見込めない」と感じさせてしまう一面もある。
昇進できないことがわかってしまうと、部下は高いモチベーションを保てなくなる。
実力のある者であれば、なおさらである。一族のものとそうでないものを決して差別しないという家康の采配は、この組織が「徳川家」によってのみ支えられるものではなく、三河の国人全員によって成り立つものなのだという表明でもあった。
それが分かればこそ、部下は自分の全能力を仕事に活かそうとするし、組織のために成長しようともする。
徳川家に所属する家臣が1人でも多くそう思えれば、家康にとっても大きな武器になる。
●徳川家康は亡くなった敵にも敬意を称した
『常山紀談』によれば、武田勝頼の首を前にした織田信長は、足で蹴り飛ばしたという。
さらに、「お前の父である信玄は京を目指していたそうだな。よかろう、お前の首を京都に送ってやる」と罵り、勝頼の首は京でさらされることになった。
さんざん煮え湯を飲まされた敵の息子ということもあって、信長の怒りは激しかった。
さて、煮え湯を飲まされたといえば、家康も同様だ。
完膚なきまで叩きのめされた三方ヶ原の戦いから10年も経っていない。
ところが家康は、信長とはまったく違って、勝頼の首に「若気のいたりで家や国を奪われ、気の毒なことでした」と労いの声を掛けたといいます。
また、信長は、勝頼亡き後の甲斐国を、家臣である河尻秀隆に治めさせた。
それまで信玄が敷いてきた慣習や国宝は一切無視した強引な統治であった。
主家を失った武田家はしばらくはおとなしくしていたものの、織田家に対する恨みが深々と募り、ついに反乱を起こした。
このなかで秀隆は殺されてしまったのである。
一方、武田家の旧領である駿河を与えられた家康は、信長より皆殺しの命令を受けていたにも関わらず、ひそかに武田家の遺臣を遠江に匿い、家臣に組み入れていった。
そうして、彼らから信玄のことを丹念に聞き、敵である信玄の経営哲学を学んでいったのだ。
現代でいえばM&A,部署の合併などに通ずる話です。
吸収先の方の意見や文化を尊重したほうが、相手側のモチベーションは上がるし、成績にも結びつくはず。
また学びも得られるだろう。敵だからといって、全否定するのではなく、存在を尊重する。この意識が大きな差になるのではないでしょうか。
●豊臣秀吉は金で家臣の心を掴んだが、一概にこれを悪いとはいえない。「買収」といってしまえば汚いもののように思えるが、いまの感覚でいえば「高い給料をもらってよい暮らしをするために、ずっとここで働こう」と思わせるのに高給を与えるというのも、1つの考え。
家康の場合は、いわゆる愛社精神を植え付けた。金のためでなく、「この人のために働こう」とう気持ちを芽生えさせた。
この両者の違いは、ふたりの晩年のあり方の違いにも繋がっていくことになる。ちなみに秀吉は、「何か与えるものがなければ、部下の心をつなぎとめることはできなくなる」と考え、朝鮮出兵を決めたとする説があるようです。
このウラログへのコメント
トップの考え方ですね
(  ̄▽ ̄)
すべてにおいてこれが正解と言うのは
おそらく無いと思いますよ
SYUZO-さん:確かに。その時によるのかな
何事にも一長一短があると言うこと?今の日本の制度を未来の人はどう評価するのかなぁ?
宵さん:どうかな。何となくあまり評価されない気がしてしまうけど
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