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承久三年(1221)定家60歳

2009年06月07日 00:00

奥山のおどろが下もふみ分けて道ある世ぞと人に知らせむ 後鳥羽上皇がこの歌を詠んだのは、承久三年の十三年まえの、承元二年五月である。



そして、



定家の父、俊成



春日野のおどろの道の埋れ水末だに神のしるしあらはせ と、歌っている。





このことについては、前に書いた通りである。





さて、この年承久三年記に、定家は再び、この句を書いている。すなわち、



承久三年五月二十一日午ノ時之ヲ書ク、・・・紅旗征戎吾ガ事に非ズ、と。



人口に膾炙した【紅旗征戎吾ガ事に非ズ】が、定家60歳の折にもあるのだとは、あまり知られていない事ではないか。



そして、承久の乱での宮廷側の敗北を、鴨長明は・・・、



「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん」と言い抜いたことがあったが、「京のならひ、何わざにつけても」のなかには、文化も入るのである。宮廷文化の経済的基盤が根本的に、ここに失われた。



定家後鳥羽院に象徴される、文化(=小生はそれを遊びと名付けたい)は、ここ(承久の乱)に来てある種の終焉を迎えたと思う。

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