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官軍

2013年06月01日 20:22

ギャハハハ、勝てば官軍、よく聞くコトバだな。

近代国家大日本帝国の、コトの起こりは、徳川追放だろ。

慶喜慶応2年10月大政奉還をした、

こんなコトはあり得ない。

フツー政権を掌握する、平たく言えば、天下を取る、って、
軍事力トーナメントだ。
うんだから、野球でもそうだがベストエイトが一番おもしろい、どこもみ~んな優勝候補だからだ。


戦国時代のベストエイト武田上杉、毛利、北条、織田徳川連合浅井朝倉連合本願寺
織田武田の頂上決戦、ま、優勝決定戦だわな。

で、織田徳川連合軍が勝った。

ところが、政権を返上した、こんなコトは世界史でもあり得ない。
古代中国理想的君主と言われる堯舜の禅譲みたいなもんだな、ギャハハハ


これはひとえに、慶喜は尊皇思想の持ち主だったからだ。

尊皇思想は水戸学、つまり、黄門様が始まりだ。

当時、黄門様の時代だわな、徳川宗家の力があまりにも強いので、御三家と言っても
内実は、家臣同様に扱われていた。

これに業を煮やしていた気の荒い黄門様は、徳川宗家を牽制しようとして、天皇を持ち出したのだ。

で、これを立証するため、日本歴史を叙述するに当たって天皇を中心に書いたのだ。
其れが大日本史編纂という、徳川光圀の大事業になった。

だから、尊皇とは水戸学が発端だ。

水戸徳川家は連綿とこの尊皇を受け継いで慶喜オヤジ
斉昭は希にみる名君で慶喜を徹底して尊皇に育てた、ギャハハハ。


土佐山内容堂の献策があったとは言え、
慶喜が選んだ政権返上とは水戸の特殊な事情によるモノだ。

で、あの暮れの慶応2年12月31日
大名朝廷が集まった大会議で、岩倉天皇の意向として慶喜を朝敵としてしまった。

むろん薩摩長州岩倉と結託して仕組んだことだ、天皇明治天皇17才蚊帳の外


しかし、権力闘争とは、ひとえに古今東西、トーナメント方式だ。
戦の帰趨でどうにもなる。

もし、あのとき鳥羽伏見幕府軍と薩摩軍が睨み合いの中で、
幕府側が発砲しなかったならば、歴史はわからない。

発砲したばかりに、朝敵になってしまった。

西郷幕府軍に発砲させるだけに、神経を集中して、あらゆるコトを挑発した。


黄門の水戸学が200年以上にわたって、日本の隅々まで、武士階層に尊皇思想がが行き渡っていた。

百姓町人には天皇など知るよしはない。


つまり、尊皇思想を武士階層は共有していたから、
朝廷に弓を向けることは、道義に反することになってしまっていた。

幕府方でアレ、反幕府方でアレ、尊皇には変わりないのだ。

王政復古朝廷諸侯会議で、一方的に慶喜官位剥奪領地返上を決められてしまった。

徳川方は心頭怒るのは無理ない、
西郷がそう仕組んだからだ。戦を仕組んだ。


水戸学以前に、尊皇思想は南北朝北畠憲房の神皇正統記があるが、
これは南朝の正当性を説いて足利尊氏北朝はニセモノだと主張している。

戦国時代では天皇権威はないに等しい。幕府権威でさえ地に落ちているのだ。

信長天皇なんぞ一顧だにもしなかった。己の権威にはくつけるために利用した。
あろうことか、
信長天皇譲位をほのめかして、禅譲するように、裏で強要していた。
で、朝廷は昵懇だった光秀に涙ながら縋った、
光秀はトーダイ法学部卒の戦国一の教養人だ。
で、一肌脱いで、覇道を捨て、王道をとった、
しかし、主君を弑するという汚名を末代まで浴びてしまったがな。



つまり、
水戸学が広く行き渡っていた幕末武士層は、尊皇とは一般教養だったのだ、ギャハハハ

教養信長秀吉家康は、
天皇
カンケーネ、ギャハハハ


水戸学で権力の正当性を天皇に措いた。

そもそも、天皇という概念は、不比等が作った
大宝律令不比等天皇を位置づけた、その前は天皇はない。
そして、そこから遡って、天皇を後付けで説明した。
不比等の前は大君といっていただけだ。

そうすると、権力の返還が成り立つ。

早いハナシ、幕末維新とは武力闘争と言うよりイデオロギー闘争だ。


だいたい、戦争に負ける前に降伏するヤツなんぞ、オカシイだろ、ギャハハハ

慶喜は戦う前に降伏したようなもんだ、圧倒的な武力を持ちながらだ。
ま、信長が戦う前に信玄に降伏したようなもんだな。

うんだから、当時の大名どもは腰を抜かすどころのハナシでない、
太陽が西から昇るハナシなのだ。


問題は、権力の正当性が尊皇思想で天皇にあるなら、なんで、玉を徳川が掌握できなかったか
あるいは、しなかったか、だ。

ということは、まだ、徳川におごりがあったとしか言いようがない。

天皇は張り子の虎、という、思いが。

しかし、これを西郷に逆手にとられてしまった。

張り子の虎に魂を入れてしまった。

軍隊である。軍隊の大小でない。

つまり、権力の正当性というイデオロギーの問題だ。

張り子の虎にどんなに小さな軍隊でも、獲得してしまうと官軍にナリ、
刃向かえば賊軍になるというイデオロギーだ。

このイデオロギーを皆武士は共有していた。

小さな薩摩軍を官軍にさせてしまった。

西郷大久保、岩倉の見事な連係プレーだ。

うんで、徳川は、腰が抜かすほど、ビックリ
朝起きてみたら賊軍、ギャハハハ


慶喜観念の尊皇だったが、西郷大久保は政治的な尊皇だったの違いだ。
つまり、実権は徳川にあると疑わなかったのだ。
これはこれで正しいのだ。

その当時の大名どもは、西郷大久保を除いて、慶喜と同じ尊皇だったはずだ。
実権はあくまで徳川にあったのだ。

しかし、西郷大久保は官軍で戦争することで、これをひっくり返した。
勝敗はともかく、西郷大久保は戦争しなければならなかったのだ。

仮に負けても、玉を抱えれば正当である、あの平家と同じようにナ、ギャハハハ

西郷リアル天皇を利用した、慶喜観念天皇を尊崇した。

早いハナシ、西郷革命家慶喜教養人だった。

慶喜西郷に尊皇を逆手にとられてしまったのだ。

信長秀吉家康みたいに無教養だったら、こんなコトには決してならなかった。



ところで、近代国家って、権力の正当性は一般民衆にあることになっている。

ルソーはこれを一般意志と言った。ま、平たく言えば、世論だわな。
これにそぐわない権力は取り替えられると、言ったのだ。


本国権力の正当性は、一般民衆の選挙による議会だろ。
議会の意志が国民の意志になるハズだ。


しかし、このクニでは、国民に選ばれない大日本帝国官軍が未だ実権を握っている。



ギャハハハ

このデジログへのコメント

  • azamino 2013年06月01日 21:10

    大政奉還は慶応3年10月14日ですよ(^_-)
    龍馬暗殺が11月15日
    鳥羽伏見の戦いが翌年1月3日

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