臨界点、突破

学校帰りのエンドウさんは駅のホームで電車を待っていました。
おもしろくもない講義を無理やり聴いていたせいか、異様に疲れています。もう、立っていたくない。電車が来たら絶対座ってやる。
他人のことなんか知ったこっちゃない。腰がものすごい角度に曲がった高齢者がいても、重たいお腹を抱えた妊婦がいても絶対座ってやるという優しくない意気込みで待っていました。
しかし、やってきた電車は人間が詰まり過ぎていました。

ちょうど帰宅ラッシュの時間に乗り合わせたのが運のつきでした。
世の中に鬱陶しいものは数多くありますが、通勤や帰宅時のラッシュというのは相当鬱陶しい部類に入るのではないでしょうか。
あの密着感がいけません。自分の意思でもって好きな人と密着する分には全然構わないんですが、強制的に他人とくっつくことはいただけません。
とんでもなく乗りたくないのですが、これを見送ると再び待たねばいけませんし、次の電車が空いているという保障はありません。
仕方がないのであきらめて、鮨詰めの中に足を踏み入れました。

しかし、不幸中の幸いといいますか、エンドウさんの両サイドは女性でした。
しかも右が女子高生、左がお姉さんというコンビネーションですよ。
いつのことだったか、同じように満員電車に乗ったときは四方をオヤジに囲まれてしまい最悪でした。
何で俺はオヤジにサンドイッチにされてるんだ！？
お尻が当たるだけならまだしも、あろうことかチンコも当たるんですね。むしろ、お前らわざと押し付けてるんじゃないかというぐらいもっこりがぺったりなんですよ。
エンドウさんは男性なのでまあ、嫌だなあといった程度なのですが、これが女性だったら不愉快なんでしょうね。

さて、男性としては女性と密着する分には文句はありません。
柔らかな手、きめ細かい肌、ふくよかな胸。男性にはない触り心地がステキです。
十分距離が取れるのに密着したら即刻痴漢ですが、満員電車という状況であれば、仕方がなくという口実が生まれます。
実際に痴漢行為というのは人間が密集した状況において行われる犯罪でしょう。事故を装うことができますし、自分の存在もカモフラージュできますからね。
ですから、仕方がなかったんです。エンドウさんとお姉さんの腕が触れ合っていたのも、肘が女子高生のおっぱいに直撃していたのも、全部仕方のないことだったんです。
事故です、事故。はい。

というわけで、鬱陶しい環境ではあったものの役得を楽しんでいました。
しかし、大局的に見れば先にも述べた通り、好ましい状況ではありません。
両隣が女性であった分、多少の緩和があったわけですが、それ以外はオヤジや兄ちゃんだったので全然嬉しくありません。
近寄るなこの野郎ってなもんです。

なわばりという行動は動物行動学の基本的な概念ですが、これは人間にも当てはまるそうですよ。
社会性を持つ動物は必要以上の接触を避けるために、社会距離という機構を持っています。
これは、その距離を越えると一個体が仲間を仲間と認識できなくなる距離のことを指します。社会距離を越えて接近し、攻撃距離に侵入したものはたとえ仲間であろうとも攻撃するそうです。
この社会距離と攻撃距離との間にある境界線を臨界距離といいます。

現代人はどうも、この臨界距離を越えて生活しているそうですね。
顕著な例では通勤・帰宅ラッシュが挙げられます。
決して広くない車両の中に限界まで人間が押し込まれる日々。それを繰り返すことは、精神的な健康に対して明らかに負担を強いるものですよ。
人間は随分と本能が退化していますので臨界距離を越えても、攻撃に移ることはないかと思います。
しかし、常に臨界距離を越えた環境で生活していればストレスがたまることは必然です。
時々、肩がぶつかったとかぶつからなかったとかでケンカになることがありますが、これも臨界距離を越えてしまったことが要因のひとつとしてあるかもしれません。
ラッシュというのは何気ない日常のように見えますが、社会問題を抱えた光景であるとエンドウさんは捉えています。

エンドウさんを乗せた電車は途中の駅で更に人間を飲み込みました。
そうしたら、オヤジが俺と女子高生の間に入ってこようとするのですよ。
許せません。
しかもぱっと見た限り、チンコを手の辺りに持っていこうとしているんです。
ますます許せません。
電車の揺れに合わせてなるべく自然な雰囲気を装ってオヤジの体を押しのけました。なんか迷惑そうな顔をされましたが、仕方がなかったんです。事故なんです。
結果として、オヤジのチンコから女子高生を守ったんですが、肘をよりおっぱいに押し付ける形になってしまいました。
エンドウさんのガードは極めて主観的で、女子高生からしてみれば俺が痴漢ですよ。
申し訳ない。おっぱい柔らかかったです。