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40years before

2016年11月15日 12:13

40years before

今から40年も前・・・・・

中学卒業休みでアルバイトニュースを観て

名古屋へ行って中部読売新聞という新しく出る新聞の勧誘と

市場調査・・・今で言うマーケティング(勧誘)だったのか?のバイトをしたが

地元・名古屋中日新聞の反対構成にあって10日間で3万円になる予定が

3日で1万円しか貰えずに舞い戻ってきた。

知らない土地タクシー相乗りして、宅地造成中の新興団地みたいなところへ 数人ずつ

下ろされて1軒ずつ新聞に関して御用聞きをして回る厄介な仕事だった。

民宿みたいな旅館に大学生の連中と寝食を数日間共にして、後の度胸はこのとき付いたのかもしれない。一緒に行こうといっていたクラスメイトバックレて自分ひとりだけで参加しなければならなかったし。

私立高校に入学したので母親からいつも金のことばかり愚痴を聞かされた。

癪に障ったので、夏休みを利用して新聞配達人形町にある中華屋

皿洗い兼ウェイターのバイトをした。

真夏日に貯めた金でお茶の水石橋楽器へ行ってグレコのバイオリンベース

ローランドベースアンプを求めたが音感センスと才能が欠如していた上に

さらに困ったことにギターが元々、弾けなかった。

そして中華屋バイトで運悪く、皿洗いの途中でにんにくの皮むきを頼まれて力いっぱい

にんにくのヘタを切ろうとしたら下に自分の小指がぺティナイフの下にあって

すんでのところで小指の頭を落しそこなった。

チャーシューを造る、タコ糸を小指にグルグル巻きにして、駆け込んだ外科の診療所はこの前
通ったら無くなっていた。

結局、小指で上手く弦を押えられないのでギターベースも諦めた。

原付免許を取得したのはその年の秋の17のときだった。

その当時は今のようなスクーターブームではなくて

ソフィア・ローレンの~♪ラッタッター~♪の

ロードパルなんかが出始めたころで

オバサン市場を狙ったゼロハ市場でもギヤつきが

主流だった。

なかでもヤマハのGT50・・・通称ミニトレは

小柄な車体と兄貴分のDTシリーズから受けた取り回し

それなりのダートでもチョイ乗りでもこなせてしまう扱いやすさで

街中にあふれていた。 独特の2ストのセミみたいな排気音と煙をたなびかせながら・・・

50ccスポーツバイクには免許取り立てのときにホンダのCB50を友人に

借りて派手に生垣に突っ込んでしまった経験があった。



いわゆる暴走族などと言われる団体(集団危険走行行為)が元気がよかったのはこの時期以降

およそ10年ちょっとの間だだろう。


同級生にもスズキのGT380やカワサキのKHやゼッツーとか

ホンダのヨンフォアなんかを乗り回してそんな連中と走り回る輩もいた。

当時の自分は痩せていて華奢だったから大きいバイクは自分には無理

だろうと思ってあきらめていた。 親戚から貰ったホンダのCD50を乗り回していた。

メタンが発売になったのはそんなときだった。RG50と同じエンジ

ンをややトルキーにした感じであいのこチョッパーみたいな感じの

不思議なバイクだったが1速はおろか3速くらいまでウィリーする

気違いみたいなバイクだった。

自分の初の購入バイク

ライムグリーンというか若草色のタンクだった。

サイドカバーの黒いところに「Marlboro World Champion Ship Team」と書かれたステッカーを貼り、タンク流星火の玉マーク

スズキ純正オプションだったけど・・・を貼っていた。

ノーヘルがまかり通っていた頃の自分は

levis のジーンズadidasトレーナーで紺色のトレーナーの背中には

GOOD YEAR WORLD CHAMPIONSHIP と白でプリントされていた。

ノーヘルが許された時代、春や秋の季節の訪れが楽しかった。

野焼きや草木の青じみてくる匂い・・・・ そして枯れて焦げていく香り・・

今では好きなときに好きな音楽は今や動画でもMP3なんかでも聴ける。勿論スマホでも


チューインガムくらいの大きさで好きな音を持ち歩ける。

だが、この頃はラジオラジカセくらいしかない。ウォークマンだって一般人が携帯するのは

もっと後だ。でも、ラジオ洋楽番組は今よりAMもFMも断然愉しかった。

好きな音楽を聴き続けてなんだか、このまま楽しいときが過ぎていくだけと

信じていたあのころが懐かしい。好きな音楽を聴き、好きな格好でバイクに乗りさえしていればいつかは夢が叶うとも信じていた・・・そんな時代・・・


高校時代は先に書いたマメタンと一緒だった。

一度、日光へ出かけた折接触で修理を余儀なくされていたが。

フロントフォークイージーライダーのように伸ばし

リアショックを短いものにしてより、チョッパー色を増していた。

信号待ちなどで「整備不良じゃないのか?ちょっと交番まで・・・」と 若い功名心に満ちた警官

免許証を見せた挙句、職務質問だの身体検査などされる場面は多かった。

いつの間にか受験シーズンだの進学だのとやかましくなり

いったんはバイクから遠ざかり、専門学校入学が決まってから

新聞の朝刊配達を始めた。

以前、高1の夏にも2カ月ほどやったことはあったが

バイクで配達し部数も300分以上で1回の配達の走破距離は40km

を楽に越えるハードなものだった。

配達のお供はホンダが世界に誇る超精密機械スーパーカブだった。

取り回しと燃費の良さ、静粛性では他の2ストの実用車ではかなわなかっただろう。

今じゃ、若者ファッションバイクの用途もあるらしいが。


夏場は蚊に喰われたり、犬に吠えられたり合計2年近くの

冬場は手がかじかみ、寒かった。 雨の日など涙が出るくらいきつかった。

余ったスポーツ新聞をいつも入れに行く配達コースの最後のほうの農家の

オバちゃんから「いつも、ありがとう。御苦労だね。 助かるよ、スポーツ新聞ありがとう・・・

配達終わりなんだろう? 朝ごはん食べておいでよ・・」とほほ笑みながら しわだらけの手で出してくれた

熱いみそ汁とほかほかの白いご飯、自家製の糠漬け・・・。

電子レンジなどまだ普及はさほどしていなかった頃だ。

冷え切った身体と内臓にあったかい御飯がしみた。

「また、いつでもおいでよ・・・、御苦労さん」と

農家のおばさんニコニコと送り出してくれた。

それから1度もその家でご飯を御馳走になることなどは

なかったが、スポーツ紙が余るとそのお宅へは届けていた。

配達も止め、学校も中退し思ってもみなかった業種へ就職

世帯を持ったが父親の死と共に母親と反りが尚更合わなくなり悩んだ末に

都心を離れて北陸にその後移り住んだ。

10年振り以上でその農家のあった場所をクルマで通ると

辺りはすっかり変わっていた。

整地された土地にはマンションが立ち並び

かつて配達の帰りに最高速で飛ばして帰った一帯は今や

レイクタウンなどと超大型のショッピングセンターになり

のどか湿地帯だったころの面影はない。

カブアイドリングの音をたまに聞く機会があると

あの熱いみそ汁を思い出す。

最近は自分でも赤出汁味噌でたまに作るがあの味には遠く叶わない。

このデジログへのコメント

  • リゾーリ 2016年11月15日 13:06

    > wineさん

    ありがとうございます。別のサイトで数年前に書いた日記の加筆訂正版です。情景が浮かんでくるような描写を意識して書いているのでとても嬉しいです。また、コメントくださいね!

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