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自分が主として満たされる状態

2020年10月01日 23:18

すごく久々なのですが、思うことがあり書いています。(長いです)

今までの自分はマゾという特殊な性質をもつ相手の満たされない事象を紐解き、提示することを通じて相手にとっての置き換えることのできない絶対的な存在になることを目的としていました。それは自身の引き出しから欲しているものを探し出し提供し、その過程で得た副産物によって引き出しの中身を増やすことができる、再度また提供することができるという考えからです。

しかし、あるきっかけから、ふと立ち返る機会がありました。
満たすことで満たされるのは自分自身だけではないという、初歩的なことに気がつきました。
フェティシュな行為を求めたり、自分の衝動的な欲求をぶつけるだけでよいのであれば、ある特定の行為に対する需要と供給が合うパートナーとある特定の行為を目的とした関係性で十分であると思います。しかし、なぜ自身が「主」という存在に惹かれ、拘るのかという視点から自身が満たされる状態を改めて再考しました。

自分の本質的な欲求の中心に「人を導く立場にあること」があります。

これは自身の生き方にも関わりがあるのですが、自分の手によって良いと思う情況(状態、場況)を作り上げたいという欲求です。これには自分自身の判断に対して絶対の確証があるということではなく、自分の価値感を少しでも理解して貰いたいという稚拙な欲求かと思います。
マクレランドの欲求理論によると、達成動機、権力動機、親和動機と3つの動機や欲求が存在すると定義されていますが、自身にとっては「他の人々に何らかの働きかけがなければ起こらない行動をさせたいという欲求」である権力動機が強いのではないかと思います。

ですので、自分にとっての主とは「主=価値観という影響を与える存在」になります。

そのような欲求を社会対して働きかけることを仕事のやりがいとしていますし、大切な友人の誕生日を祝うような自分を自分たらしめる性格にも影響しているように思います。

そう考えたときに欲求というのはあり意味で生業でもあるのかと思います。生業である限りその欲求は、森羅万象あらゆる事象に対して働きかけます。そうすると、それは異性や性の領域に対しても働きかけたくなります。

幸いなことにも、自身の価値観同調してくださるパートナーに恵まれ、実現することができてきた経緯があります。

そのような経験の中で自身が最も気持ちがあがる(満たされているとは異なる)のは、価値観同調していただいたときではありません。パートナーの中に既に存在している価値観と自分の価値観が合うことがきっかけとはなりますが、前述した権力動機が満たされることはないからです。では、どんなときに自身が満たされるかというと、それは、パートナー自身には存在しない主の価値観(審美感、マナールールなど)に興味を持ち、理解しようと対話と体現を重ねている時間です。

価値観に正解はありません。
例えば、それは生活の中のふとした事象に当てはめるとわかりやすいです。しじみの味噌汁はしじみをはじくってまで食べるのはマナーが悪い?逆に残すのは調理者にとって失礼だからマナーが悪い?のようなことです。

それぞれの意見の背景にはそれぞれの価値観があります。同様に主には主の、従者には従者の経験の中で培ってきた価値観があります。

その前提の上で、自分の考える調教とは主の価値観を理解し、主従という関係を構築するためのプロセスです。

主の発する言葉に対して、なぜ?どうして?どこが異なる?どちらが良い?といった様々な疑問を繰り返し租借し自分の内面に染み込ませていきます。同調する必要はありません。その考え方であるならばと主の言葉よりも踏み込み、こういうことなのだろうかと主の前で主の価値観を形にするように披露していきます。その過程を繰り返す中で、従者は自身の中に主という基準を構築し、また、主は自身の中に従者を迎え受ける状態へと構築していきます。

主従は約束(言語化の有無を問わず)の中で時間を共にする関係です。その約束は主の価値観によって描かれる世界の秩序です。初めて訪れた異国でその国の慣習を手探りで学んで、作法や礼儀を身につけていく状態に近いのかもしれません。

調教時間に行為の良し悪しや、出来の良し悪しは、さほど意味を為しません。租借していく中で主の価値観を身につけ、主の価値観を意識下に浸透させていく(同化まではいかなくとも)ことで主と従者の関係性が構築されていくのではないかと思います。

価値観の受け入れはある意味では残虐なものとしても捉えられます。

強い言葉になりますが、主従の関係は従者は自身が培ってきた価値観をもって主に尽くすのではなく、主の価値観によって従者の価値観を懐柔・蹂躙されていく中で行われるものです。
自身が善としてきたものが、ときには悪とされることもあります。
これは人類の歴史の中でも起こってきたことです。鎖国されていた日本に黒船がやってきて西洋文化を浸透させました。当時の日本人にとってそれは日本の価値観を否定され、物事の善し悪しもわからないままマイノリティに従属させられたような感覚です。西洋人日本人からの接待に対して西洋価値観で出迎えるように強要しました。今でこそ西洋文化はマジョリティに溶け込み、違和感を持つこともなくなりましたが価値観を迎え入れるというのは凶暴な側面も持っているということです。

マゾサブミッシブという性質の中に被虐性や従属性も含まれます。サドドミナントという性質の中には可逆性、支配性が含まれます。
このような主も従者もお互いのもつ特殊な性質の中で、主と従者という立ち位置確立していくのではないかと思います。

性的な側面への価値観の働きかけは、仕事や日常の中のサプライズとは異なり、物事(商品やイベントなどの特殊な状況下)を媒介とすることなく直接的に対象の人物へ働きかけることになるため残虐性は増すことになります。
そのため、価値観の働きかけにこのような残虐性を持つ以上、特殊な性質を秘める主のみでは権力動機を満たすことは出来ません。価値観を働きかけられる対象となる人物の従者としての性質も重要な要素です。

「他の人々に何らかの働きかけがなければ起こらない行動をさせたいという欲求」である権力動機が強いことからも、発信することを生業としている以上、価値観を理解し租借していただく時間というのは唯一無二のものであり、もっとも安らぎを得る時間なのかと思います。

主として最も心地良く満たされる時間として、自身を理解しようとしてくれる従者の存在は代わりのない存在です。主は従者という存在を通じて自分の価値観を体現化させることに満足感を得ることができます。
例えば「赤いドレスできて欲しい」という主のぼやきのよう発言に対して、「なぜ?」「どういう意図で?」「赤いというのはどんな赤?」「どんなドレス?」「どのタイミングでどう魅せる?」という問答のやり取りができているときに幸福感を得ます。そこから、従者は主の答える一言一句から意味を見出し深紅な身体ラインがくっきりとしたドレス」のような「赤いドレス」に独自の解釈を加えた解答と共に従者自身が咀嚼して導き出した価値観を体現します。

そのやり取りは言葉のない時間かもしれません。赤いドレスを着てきた従者をみて主は頷くだけかもしれません。従者は時を見計らい、主がソファーに深く腰をかけている時かもしれませんし、机に向かって仕事をしているときかもしれません。主の前にそっと立ち赤いドレスを着た自分を披露します。主はじっと従者を見つめます。主が視線を首元に移すと、従者は主の視線を感じ取り、首を差し出すかのように顎を持ち上げます。まるで主に首を握られているかのような感覚になるかもしれません。主が手をかけて服を首元から脱がしだすかもしれません。それは服を脱げという指示を間違えてしまったわけではありません。主は従者の解釈に、さらに加えて主自身の解釈を伝えようとしています。従者は主の一挙一動からなにかを解釈しようとします。次の行動を予測し、主の手を煩わせないように観察します。主が目を逸らして表情が崩れたとき、主は価値観の解釈のやりとりに満足します。このような調教の時間を通じると、主の価値観を従者は吸収していき、自分のものにしていくうちに従者は主よりも主に近づいていくのかもしれません。

自分は主として常に影響を働かせることを求めています。主という特殊な性質をもった自分も日常生活を起こる中では理解すら拒まれることがあります。それは社会で生きるなかで当たり前のことです。
ですので、従者の解釈が主の想像していた答えであろうとなかろうとも、自己解釈を加えてに提案するというやりとりの時間そのものが主にとっても従者にとっても心地良く感じるのが主従関係の理想なのかと思います。

理解をしようと試行錯誤している様子を知れること、それが自分の主としての満たされている状態なのかと思います。

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