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★吉原(25)

2011年06月07日 00:02

★吉原(25)

『反魂香(はんこんこう)』



長屋で、夜中に一つカネをたたいて回向をしているの坊主がいる。八五郎が夜、トイレにも行けないと掛け合いに来た。 坊主は名を道哲と言い・・元、島田重三郎と言う浪人であった。吉原三浦屋の高尾大夫と末は夫婦にとお互い惚れあっていた。ところが、伊達公が横から見初めて大金を積んで身請けしてしまった。だが、高尾は重三郎に操を立てて決して生きてはいない・・・結局、伊達公も殺されてしまう。高尾は、その時取り交わした、魂を返す”反魂香”で、回向をしてと言い残した・・・これを焚くと高尾が出てくると言う。


それなら見せろ、と八五郎が言うので、火鉢のなかに香をくべると高尾幽霊が出てきた。香の切れ目がえにしの切れ目、無駄に使うなと高尾幽霊


八五郎は亡くなった女房のために、この香を分けてくれと言うが、私と高尾だけのための物だから、貴方には役に立たないからと断られる。
 

そのまま夜中に、香を買おうと生薬屋を起こしてみたが、何という香だか忘れてしまった。いろいろ吟味して、見つけたのは越中富山の反魂丹。これを三百買って帰ってきた。家の火を熾し直し反魂丹をくべながら女房”お梅”のことをあれこれ考えていた。出てこないので、足して足して全部をくべたが出ない。煙でむせていると、 表から 「ちょっと、八つぁん」。煙の中からではなく、堂々と表から来たぞ。「ちょっと、八つぁん」、恥ずかしいと見えて裏に回ったな。「そちゃ、女房お梅じゃないか」、「いえ、裏のおさきだけれども、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないの」。・・・まぁ、香じゃないし・・

 

●反魂香(返魂香)・・・中国、漢の武帝が李夫人の死後、香を焚いてその面影を見たという故事による。焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現すことができるという想像上の香。武帝の依頼により方術士が精製した香で、西海聚窟州にある楓に似た香木反魂樹の木の根を煮た汁を漆のように練り固めたものという。


●反魂丹(返魂丹)・・・越中富山の反魂丹と言われ、木香(もっこう)、陳皮(ちんぴ)、大黄(だいおう)、黄連(おうれん)、熊胆などをもって製した懐中丸薬。霍乱(かくらん=暑気あたり)・傷・食傷・腹痛などに効くという。元禄頃から富山の薬売りが全国に広め、江戸では芝・田町の堺屋長兵衛が売出し、一手に販売した。「田町の反魂丹」として名高い。
 

●道哲・・・道哲も高尾大夫も実在の人物です。道哲は因州鳥取浪人島田重三郎 と言い、ある晩友人に誘われて吉原に始めて足を踏み入れたが、そこで出会った高尾にぞっこん惚れて、高尾も重三郎に惚れて、二人は末は夫婦にと誓い合った。しかし、伊達公に横取りされてその上、殺されてしまった。その回向をする為、出家して名を道哲と改め、吉原遊女の投げ込み寺西方寺に住みついて、高尾の菩提を弔らった。それが巷では噂になり、吉原通いの遊客からは土手の道哲と呼ばれる様になった。おい!伊達の殿様・・いけませんね。
 

吉原の太夫・・・吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、享保(1716~)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなった。

太夫というのは、豪商大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。 文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴、太鼓、木琴?の楽器が出来て、踊りが舞えて、歌が唄えて、和歌、俳諧が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできた? (志ん生師匠のネタ)と言う万能選手です。 高尾太夫については★吉原4・5で紹介した、「紺屋高尾」にあります。

伊達仙台、萬治)高尾・・・伊達騒動事件の元となった、吉原大見世の三浦屋専用名の高尾太夫で、墓には二代目と記されているが異説もあり正確には判っていない。 萬治高尾とあるのは、過去帳から万治3年(1660)12月25日に亡くなっているので、こう呼ばれています。仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)は、高尾太夫を7800両で身請け (彼女の体重と同じだけ金を積んだとも。現在で言う5~7億円でトレード)したが、太夫は夫婦約束した男、島田重三郎に操をたてて応じなかった。為に、隅田川三 ツ又で裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨てた。しかし、一説によると高尾太夫は身請けされたのちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われる。 また、別の話では頭部だけが宝永年間(1708)永代橋の近くに流れ着いて、手厚く葬られ”高尾稲荷”になったとも言われる。

落語「反魂香」はこの事件を元に描かれたのですが・・虚実入り交じっていますので、どれが真実やら。

実説では、万治3年8月25日三代仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が隠居、長子綱村(つなむら)家督を継ぎ、伊達宗勝(むねかつ)・田村宗良(むねよし)を後見とする。(寛政重修諸家譜より)
伊達騒動の発端は仙台藩主伊達綱宗の放蕩にあります。その張本人が吊し切りの前に21歳で強制隠居させられています。二代目高尾のお墓は豊島区西巣鴨の西方寺に有りますが、もう一ヶ所、吉原の目の前、春慶院(台東区浅草2-14)にもあります。

基本、高尾太夫、情が深く、誠実な女性として描かれることが多いようですね。

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