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後藤新平の意志を今こそ駄目日本の政治に

2023年01月02日 10:09

関東大震災から東京復興させた 「国家の医師」後藤新平
池内 治彦(ノンフィクションライター)2015年2月

以下部分転載

100年先の未来を見すえた“近代日本の羅針盤”。政治家であり、医師でもある後藤新平による人の生命と健康を公共の中心に据えた「都市づくり」構想とは。

国家を「生命体」ととらえ、政治を行った後藤新平。人間中心の「都市づくり」はいま再評価されている

「わたしのような老人は、こういう時にいささかなりと働いてこそ、生きている申し訳がたつというものだ」。“日本資本主義の父”渋沢栄一は、17歳年下のひとりの政治家から協力要請を受けるや、ともに関東大震災後の救済と復興をにない、まさに八面六臂の活躍をした。この「民」と「官」を代表する先見性にひいでた“無私のコンビ”は絶妙だった。それにしても83歳になる渋沢翁を、そこまで突き動かした政治家とはだれか。

いまから100年前に、時代をこえた事業構想力をもって、東京を世界に通用する偉大な都市に改造しようと“見果てぬ夢”を追いかけた男がいた。かれは、それまでだれもおもいもつかなかった「人の生命と健康を守る」人間中心の機能をそなえた「都市づくり」をこのときすでに構想していた。この日本人離れした壮大なビジョンから“大風呂敷”と批評された後藤新平(1857-1929)である。

「3・11」東日本大震災で、不幸だったのは、天災人災とがかさなったことである。さらに残念なのは、関東大震災のときのような斬新な復興計画が国からも地方からも出てこないし、それを実行する「自ら泥をかぶれる」リーダーが現れないことであろう。いま後藤新平という人物に、時代のスポットライトがあたろうとしている。生物学の原則でやる

日清戦争(1894-1895)の勝利で割譲された台湾の新総督・児玉源太郎(1852-1906)の右腕として、新平は民生長官の任についた。当時、日本による台湾経営は危機的状態だった。地元有力者とつながった抗日ゲリラの跳梁跋扈はやむことなく、軍隊による治安維持も全く機能していない。そして深刻な阿片吸飲の習慣......。財政は破綻状態だった。

台湾はいま病人としてよこたわっている。これを健康体にしなければ......」「民心の安定なくして統治なし」。この厳しい状況のもと、新平はおもいきった政策をつぎつぎにうちだしていった。

のちに新平は、関東大震災の際、自分の屋敷を多数の人の避難所として開け放って炊き出しをし、また身内には“冷や飯食い”をさせても、重用はしなかった。かれは終生「パブリックの精神」を忘れることはなかった。

地元の医学校で猛勉強し、はれて医師となった新平。24歳で愛知県病院長となる。翌年、自由党総裁板垣退助(1837-1919)が暴漢におそわれる事件がおこり、新平はその手当てにあたる。「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残した事件だ。このとき板垣は、新平の人物を見抜き、かれが政治家でないことを大いに残念がった。

「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」。1883年(明治16年)、新平は内務省衛生局に入る。26歳のときだ。新平は著書『国家衛生原理』のなかで、「国家は生命体である」ととなえ、それを行政官としての原点とした。さらに新平は早くから「予防医学」の重要性を訴え、とりくんでいた東京下水道整備はかれのライフワークになっていく。

33歳になった新平は、多額の借金をし、2年間ドイツ留学する。そして“新知識”をえて帰国した新平は、1892年(明治25年)に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いていく。その後、日清戦争の帰還兵のためのコレラ上陸阻止プロジェクトで世界的な実績をあげ、1898年(明治31年)から8年間、台湾総督府政局長をつとめる。

このとき島民の反乱をおさえ、産業の振興や鉄道の育成を図り、破綻にひんしていた台湾を見事によみがえらせる。この実績を買われた新平は、1906年(明治39年)に、日露戦争(1904-1905)の勝利でえた南満州鉄道の初代総裁となり、今度は満州の「都市づくり」に取り組むことになる。

これら植民地経営に手腕をふるった新平。1920年(大正9年)には汚職で疲弊しきっていた東京市市長となる。そんななか、1923年(大正12年)にあの関東大震災(M7.9、死者10万人、焼失43%)がおこる。新平は、山本権兵衛(1852-1933)内閣のもとで、帝都復興総裁として震災後の復興にあたり、帝都建設に着手する。

地震は何度でもやってくる」「大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」。新平の震災復興構想は、100年先の日本を見すえた壮大なプロジェクトだった。それは綿密なビジョンと技術に裏付けられたものだった。新平は、関東大震災後に内務大臣として入閣し、「帝都復興の議」を提出。帝都復興総裁も兼務し、壮大な都市建設にとりかかろうとしていた。ところが、台湾満州のようにはいかない。

トップダウンがきかないのだ。薩長中心の藩閥政治では、ただでさえ“朝敵”とされた外様。さらには高橋是清(1854-1936)ら地主閥を背景とした反対勢力による猛反発にもあう。かくしてかれの事業構想は大幅な予算カットを余儀なくされてしまう。

政治家というよりも医師である新平に、政界での“根回し”などできるはずもなく、空気も読まなかった。また下戸の新平に政治家への“接待”などできるはずもない。

結局、かれの東京市改造計画案は“大風呂敷”と酷評され、40億円の震災復興計画は規模、費用、計画主体などすべての面で後退をせまられた。新平の理想はすべてを実現することはできなくなった

国家を「生命体」ととらえ、政治を行った後藤新平。人間中心の「都市づくり」はいま再評価されている(写真提供:後藤新平記念館)

「政策をつぎつぎにうちだしていった。かれは、台湾風土、風習、風俗などを十分に理解し、現地住民を尊重したうえで、それまでの軍人統治とはまったく違うやり方で台湾をよみがえらせようとした。「生物学の原則でやる」。新平は“科学的な政治家”と称された

政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道は排すべきだ」。つまり「パブリックの精神」を忘れなければ判断は誤らないというものだ。この教えは新平の心にしみ、かれの価値観をつくった。ここでいう「パブリックの精神」とは、たんに「公共」というよりも、渋沢栄一のいう「私利を追わず公益を図る」に近い。

「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」。1883年(明治16年)、新平は内務省衛生局に入る。26歳のときだ。新平は著書『国家衛生原理』のなかで、「国家は生命体である」ととなえ、それを行政官としての原点とした。さらに新平は早くから「予防医学」の重要性を訴え、とりくんでいた東京下水道整備はかれのライフワークになっていく。

これら植民地経営に手腕をふるった新平。1920年(大正9年)には汚職で疲弊しきっていた東京市市長となる。そんななか、1923年(大正12年)にあの関東大震災(M7.9、死者10万人、焼失43%)がおこる。新平は、山本権兵衛(1852-1933)内閣のもとで、帝都復興総裁として震災後の復興にあたり、帝都建設に着手する。

台湾満州もかれにとっては「実験」に過ぎなかった。いよいよ帝都東京で理想の「都市づくり」に腕を振るえるときがやってきたのである。がしかし、ここでも権利意識ばかりが強い反対勢力によるすさまじい抵抗にあい、かれとかれの構想を打ち砕こうとするのであった。

国家は生きもの
「国家は生きものである」。新平の変わらぬ哲学だった。もしも国が病にかかったら治す手立てを講じなければならないし、国が生命体である以上、その “血管”である道路網や鉄道網、それに下水道の整備も不可欠だ。災害対策だって同じことだ。

地震は何度でもやってくる」「大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」。新平の震災復興構想は、100年先の日本を見すえた壮大なプロジェクトだった。それは綿密なビジョンと技術に裏付けられたものだった。新平は、関東大震災後に内務大臣として入閣し、「帝都復興の議」を提出。帝都復興総裁も兼務し、壮大な都市建設にとりかかろうとしていた。ところが、台湾満州のようにはいかない。

トップダウンがきかないのだ。薩長中心の藩閥政治では、ただでさえ“朝敵”とされた外様。さらには高橋是清(1854-1936)ら地主閥を背景とした反対勢力による猛反発にもあう。かくしてかれの事業構想は大幅な予算カットを余儀なくされてしまう。

政治家というよりも医師である新平に、政界での“根回し”などできるはずもなく、空気も読まなかった。また下戸の新平に政治家への“接待”などできるはずもない。結局、かれの東京市改造計画案は“大風呂敷”と酷評され、40億円の震災復興計画は規模、費用、計画主体などすべての面で後退をせまられた。新平の理想はすべてを実現することはできなくなった。


ドイツ留学中の後藤新平。師事したローレンツ博士からは「国家有機体論」を学ぶ(写真提供:後藤新平記念館)

昭和天皇は、自ら体験した関東大震災の60年後に、つぎのようなお言葉を遺している。

震災ではいろいろな体験はありますが、ひとことだけいっておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てた。もし、それがそのまま実行されていたら、おそらく東京の戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかとおもって、いまさら後藤新平のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念におもいます......」

挫折しながらでも、何かを残そう
しかし、そんなことでひるむような新平ではなかった。もともと敗北から始まった人生である。「挫折しながらでも、何かを残そう」。それからの新平は「区画整理」のただ一点にかけ、腹心の東京市長とともに実施した。全身治療が無理ならせめて根幹部分の外科手術だけでもほどこそうと考えたのだ。しかしそれは、既成市街地としては世界初画期的な試みであった。

新平の帝都建設の狙いは、江戸の歴史をひきずってきた非近代的都市を「燃えない近代都市」につくり変えることにあった。「民」代表の渋沢栄一も、「大東京の再造には、武門政治的(軍事的)な都市でなく、商業本位の都市にしたい」と新平を全面的に後押しした。しかしそれは焼土をすべて買い上げたうえ、そこに全面的な「区画整理」をほどこし、広い街路や公園や不燃の建造物を建設するというものだった。そのためには、地主たちからは1割の土地を供出させる必要がある。当時大きな勢力をもっていた地主たちが納得するはずはなかった。

しかし新平らは住民たちを巻き込んでいった。「本当のところで得をする」といった情報を巧みに流すパンフレット戦術である。かれは「パブリックの精神」をもちつつも、日本のような“ムラ社会”においてはコミュニティ的説得が何より効果的であることを承知していた。それはまた、台湾満州とは違い、トップダウンがきかない日本ならではのやり方でもあった。

来日したニューヨーク都市計画権威チャールズ・ビアード(1874-1948)は、「地主たちの土地はその分減るが、安全な都市基盤ができれば、地価は上昇し、地代となって返ってくるはず」とし、東京に美観と特異性を与えた新平の構想を支持した。さらに「後藤案のような都市づくりをしなければ、いつかの日にか、日本の心が世界で光芒を放つようになったとき、自らを悔い恥じることになるだろう」とまるで予言めいた言葉をいい残している。


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