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ウラ的内容です。読む際は心して。。。(本当にあったできごと)

2010年07月20日 16:14

ウラ的内容です。読む際は心して。。。(本当にあったできごと)

日本少年犯罪史上、最悪と言われた事件がある。


41日間にも及ぶ監禁の間、少女に対し執拗、冷酷、残虐極まりない暴行、凌辱の限りを尽くした上に殺害し、少女遺体コンクリート詰めにして捨てるという、日本の少年犯罪史上において希にみる凶悪な犯罪があった。

ことの発端は、1989年1月、少年2人が強姦窃盗容疑で綾瀬署に逮捕された。

家裁審理中、少年たちは鑑別所に収監されていたが、彼らの家を警察が家宅捜査すると女性下着などが見つかったので、
「お前、人を殺しちゃダメじゃないか」と警察が余罪について軽くカマをかけたところ、少年は

「すいません、殺しました」

と言った。驚いたのは警察の方だった。
少年の自白に従って江東区埋立地死体の入ったドラム缶が発見される。被害者少女死体ボストンバッグに詰められ、コンクリートを流しこまれて固められていた。
死体はすでに腐敗しており顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せこけて皮下脂肪が半分近くにまで減っており、頭髪がほとんどなかった。これは長期間なぶられ続けたストレスにより抜け落ちたものであろうと思われた。
膣には小瓶2本(オロナミンC)が押しこまれたままだったという。

被害者少女は捜索願いの出ていた高校3年生のE子さんであった。就職先も決まっており、最後の学生生活を楽しんでいた矢先であった。

1988年(昭和63年)11月25日、アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった県立高校3年生のE子(17歳)は、突然、バイクに乗った見知らぬ少年から蹴り飛ばされた。

このとき蹴り飛ばした少年がCである。名前はここで公開されてます。もっとも『週刊文春』(1989年4月20日号)が加害者実名で報道しましたが。

バランスを失い、自転車に乗ったまま転倒したE子は、そのまま側溝に落ちた。そこへ、別の少年Aが近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやるよ」と言って、近くにある倉庫の暗がりで「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。

Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはB(小倉譲…現在は神作と改姓して神作譲)の他にDがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。その後、4人の少年たちは東京都足立区綾瀬のCの自宅の2階のたまり場にE子さんを連れ込んだ。
少年らはE子を輪姦した。
E子さんは必死の思いで抵抗したが、寝具などで顔面を押さえつけられたため叫び声を上げることはできなかった。さらにAらは、陰毛の一部をカミソリで剃り、嫌がるE子の性器マッチ棒を差し込み、火をつけ、熱がるE子を見て興じていた。

11月30日午後9時ころ、監禁場所のC宅のCの母親は、このとき初めてE子の顔を見ている。Cに対し「早く帰しなさい」と言った。だが、1週間経ってもE子がいることに気づき、直接、E子に「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか帰ってくれなかった。

これに関してCの母親裁判で、

「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子煙草を吸っていた」などと言ったことがマスコミに批判された。

のちにCの両親は批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。

ちなみにCの両親は共産党員。
Cの母親は毎回欠かさず裁判を傍聴している。
その後、昼夜の別なく、E子の体を弄び、そのあまりの暴行に、E子が気を失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、またレイプということを繰り返していた。その間、交代で見張りを続けた。

12月初めの午後4時ころ、、E子は少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を見て、2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。だが、運悪く、近くで寝ていたAに気づかれてしまった。すぐに逆探知警察からかかってきた電話に、Aが出て「なんでもない。間違いです」と返事した。

AとBは、このことをきっかけとして、E子に対し、手荒いリンチを加えた。殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を負わせた。また、シンナーを吸わせたり、ウィスキー焼酎を飲ませて楽しんでいた。

Aは武田鉄矢の『声援』という歌に「がんばれ、がんばれ」という歌詞があって、いじめているときにそれを歌いながらE子に対し「お前も歌え」と言って歌わせた。自分たちが何もしていないときにもE子は小さな声で「がんばれ、がんばれ」と自分に言い聞かせているときがあった。
さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。

12月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく続く殴打によってE子の顔面が無惨に腫れあがり、凸凹のない別人の顔になった。

「なんだお前、でけえ顔になったなあ」

少年らは笑いあった。


暴行エスカレートするのにともない、E子に与えられる食べ物もおざなりになっていった。それは主にCの兄の役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、1日に牛乳を1本、たまにパン1枚与える程度になっていった。トイレにも行かせず、飲料用紙コップに排尿させられるようになり、その尿を飲まされたりした。
E子は「なんでもするから家に帰して」と必死に哀願するが、全裸で踊らされたり、自慰強要され、さらに、直径3センチの鉄棒や「オロナミンC」のビンを陰部に挿入させられた。

Cの両親は異常な気配に気づいていた。両親はそれ以上追及すると、開き直られるのを恐れて、2階の物音には耳を塞いでいた。
E子はリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。全身は衰弱し、悪臭もひどくなった。Aはその臭いが嫌だと言って、寄りつかなくなった。
1989年1月4日、監禁から41日目のこの日、午前6時半ころ、Aは徹夜マージャンで10万円ほど負けムシャクチャしていた。その腹いせとしてAはE子をその対象にした。
B、C、Dの3人はE子の火傷の臭いを嫌ってDの自宅でファミコンをしていた。AはDの自宅に立ち寄り、3人を誘って、Cの自宅の2階に上がった。
小泉今日子の「なんてったってアイドル」のテープをかけ、
歌詞の中の「イエーイ」に合わせてE子の脇腹に思いっきり殴打する。
E子は、声を出すと殴られるため、痛みをこらえて顔を歪めた。その表情を見て少年達は面白がった。
ロウソクに火がつけられ、E子の顔にそのロウを垂らし、顔はロウだらけになった。
Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、ビニール袋(Aがシンナーを吸ったとき使用した袋)を手に巻き、E子の肩や足にパンチを浴びせた。やがて、E子は身体を硬直し、ブルブルと痙攣し始めた。
Aは1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、DはE子の腹に落とした。Aが暴力を振るうと、今度はB、C、Dが「ウケ」を狙って、面白半分に暴力エスカレートさせた。
Aはリンチの途中でE子の死を意識した。
午前10時ころ、リンチが終わった。AはE子が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人はサウナに出掛けた。

E子死亡。



翌5日朝、死体の処理に困った少年たちは、死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れてセメントを流し込んだ。セメントは、Aが以前、タイル工として働いていた店に電話をかけて、セメントと砂利を調達して作ったものだった。(そのとき雇主は、「お前人を殺したな」と確信をもって詰寄っている。しかし、警察には通報していない)

午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地ドラム缶を投げ出して帰ってしまった。


高裁はAに懲役20年、Bに懲役5~10年、Cに懲役5~9年、Dに懲役5~7年を宣告。また監視役の少年3人を少年院送致とした。

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