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触れる指先、不埒に富んで。

2009年03月24日 14:16

触れる指先、不埒に富んで。

芸術とは、こうも多様で炸裂的なものかと思う。私が見た其れはあの人の愛する音楽でも私の愛する文学でも何でもないのだけれど、(愛するといてしまってはあんまりにも無責任で簡素な物言いではあるとは解りつつ、其れとは差し引いて、)此れが表現をするということにおいての、楽器や筆が身体の一部になるということなのだとしたら、と。つまりそう思う。私の筆は私の身体の何処に、如何様に溶け込むのだろう。その溶け込ませ方は。その溶け込み方とは一体。その彩色は。私の身体への蝕みは。

(炸裂した音楽、芸術というものの表現方法においては、例えどのような力の掛け方をしたとしても、身体の一部であるのだから、無理な負荷が掛からない。負荷ではない。)

* 私の筆の取り方、私の筆の扱い方、毎日毎時間毎分たとえば世界を筆記する。自己の中の処理の上で。整理の上で。練り込みの上で。掻き混ぜられた個性と理性。

* 恐らく、精神的な迫害を受けた上で観ても溶け込まなかったものが多い。少なくとも私の場合はそれが酷く多かった。

芸術を自分の中の一部にできた人は本当に好い顔で笑う。私はそのような者の一人に成りたいと思う。そのような者の一部に成りたいと思う。そうして同時に、そのように成っていくあの人を見たいとも思う。

芸術花火のようである。炸裂する花火。色彩も頚飾もそれぞれが違い、それぞれの見る目によってそれぞれは変化するが、その色は何れ退化するにせよ昇華するにせよ、美しい。

* 私は今表現をしたいと多少、思い込み始めた。けれどそのためには言葉が必要だ。その言葉の意味が必要だ。その言葉を知る為に先ず本が必要だ。私はその為に本を手に取るべきだ。あの人はそのような為に書を読んだのだ。

* 熱を下げる。発熱発火の行方。途方なくも。

芸術を自分の身体の一部にする上で、つまり出来得る限りの表現をすることにおいて、そのために必要なもの。それを私は今後探していけばいい。私は上京して半月、未だ何ら知ることが出来ていない。

化学反応のようにキレイに無駄なく作用する。酸化、消化、吸収。そのような自分であったのならなァ、と思う。それが目に見え、感じられるものであったのなら私もこのようには成っていなかったのだろうか、と。他者に対しての感情や視野全てが化学反応のように私に作用し、そうして自分の中に渦巻いていたのなら。他者との会話によって世界への考察を整理し、何らかを得る生活。それらはとても素晴らしい。

このデジログへのコメント

  • 亀吉 2009年03月24日 20:01

    瞬間的に言葉を道具にするっていえば詩ですよねぃ…坂の上の銀製の乞食になりたい

  • 太郎 2009年03月24日 22:21

    芸術が芸術たらんとするものは、それが人の心を衝くものだからだ。
    それは深いものより生まれる。

  • まこと 2009年03月24日 22:59

    なるほど・・・・

  • 吉☆ 2009年04月22日 05:50

    生きることが化学反応のようなら
    生きがいなど不要
    思考などする必要がない

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