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無条件の愛

2009年11月09日 07:27

人は成長の過程で知らず知らずに
自分のした事に対しての対価を
求めてしまう。

これは近代工業社会が出来て
労働の対価としてのお金という
概念が強く根付いた事による部分が大きい。

それがそのままスライドして
愛情にまで対価を求めるように
なっているんじゃないだろうか。

無意識(だから気が付かない)の
レベルで、自分がこれだけして
「あげた」のだから、相手にも
「これをしてくれるはずだ」と
望んでしまう。

恋愛の中でなら、それはまだ
マシなのだけれど、子育てにも
それが及んでしまっている。

精神的自立が成されないまま、
要は自分の葛藤を解決しないまま
親となって、依存の対象が
親や権力から「子供」に向かって
しまっている。

子供に依存・・・といっても
ピンとくる人は少ないと思う。

何故なら依存というのは、より
強いものへすがりつくような
イメージがあるからだ。

けれども精神世界で考えると
状況は一変する。

子供を自分の思い通りに扱い、
自分の思い通りにならないと
処罰を与える。

子供は自分ひとりで生きていけないから、
親の言う事、望みに応えられないと、
自己処罰するようになってしまう。

本当の自己とは違う自分を作り出し、
そこで本来の自分と、親や社会から
理想とされる自分という相反する
自己像を作り出す。これが精神の
分裂を呼んで、心の病理の源泉となる。

こうして親や社会から処罰されない
自分を作り出すが、本来の自分では
無い分裂した、あるいは仮面をつけた
自分というものが「本当の自分」だと
観念上の自分の自己像にすがりつく。

そうした場合、期待に応えられない、
社会的に容認されない自分像は
処罰の対象となって、自らで自らを
攻撃するようになってしまう。

この源泉は怒りであって、怒りが
外に向く場合には権力や金に
固執したり、反社会的行動に出たりする。
内側に向く場合には、矛盾した本来の
自分を攻撃して、観念で創り上げた
自分こそが正しいとして、自己
破滅させる行動に出る。

結局の所、産まれた瞬間から
充分に親の無条件の愛情
受け取っていない者にとっては、
外に向くにしろ、内に向くにしろ、
本当の自分は無意識へと追いやってしまって
本来ならば自分自身の葛藤として
苦しみ痛みを味わって乗り越えるべき
課題を、自分が創り上げた観念的な
自己像に向かって行ってしまう事になり、
自分と向き合う事が出来ない存在となる。

現実との関わりを拒絶している事に
なってしまう。現実と関わっているのは
自分で作り出した虚構の自分であって、
本来の自分ではない。

自己から分離された観念上の自分は
実は感情を伴っておらず、パターン化
された感情表現、つまり社会的に是と
される感情表現を忠実に再現しているに
すぎない。

他人を支配して自分の思い通りに
動かそうとする人物像は、金や権力
求め、そしてそれに成功した者は
社会的成功者とみなされ、根本にある
病理には目が向けられることは無い。

自分を攻撃して自傷行為自殺などを
行う者は精神的に弱いと非難される。

しかし病理根本は同じ所にある。

問題となるのは、無意識であるが故に
病理とは理解されず、どのような形であれ、
親や社会から「望まれている」自分像
を創り上げてしまって、それに
従って自分や他人を傷つけても
感情としてそれを受け止めない部分に
根本がある。

しかしそれは本来の自分の欲求との
葛藤によって、深く洞察し悩み苦しんだ
結果ではなく、「思考」によって
作り出された「感情に似たもの」への
すり替えによって、実際の感情は
全くの幼児のままで成長していない。

真の感情と向き合う事をしなければ
真の成長は成しえないのだけれども、
無意識下で行われる複雑な作業によって
観念化された感情と向き合い続ける事に
より、他人を傷つけている事も、
自分を傷つけている事にも、永遠に
向き合う事が出来ない。

結果的に、表面上は社会に
必要以上に適応して過剰適応
してしまって、それこそが正しいのだと
思い込んでしまう。

そうした病理に気が付く事が出来ない
幼児の頃から、それを刷り込まれているから、
問題の所在が自分の心にあるとは
夢にも思わずに、すり替えの論理の中で
自分の存在を肯定するようになる。

そのようにして身につけた思考パターンは
気が付く事すら出来ないし、修正する事は
さらに困難な事となってしまう。

昨今ではこれが加速していて、
「正しさ」「正常さ」そのものが
病理として根付いてしまっている。

このような状態ではアイデンティティ
確立など出来るはずはないし、
観念で創り上げた自分自身の姿に
アイデンティティ自己同一視)を
見出したとしても、そもそもの根本
分裂した自己から由来したものだから
現実の難しい問題に直面した時に、
自分という存在に確固たる自信を
持つ事が出来なくなってしまう。

そして今やこの病理は社会を
覆い尽くしているように思える。
本当の自己と対決し、苦難や苦痛
乗り越えていれば、現実の諸問題に
対して真の自分の感情で向き合う事が
出来るのだが、弱い自分を置き去りにして
仮面を付けて社会と対峙する時、
その「あるべき姿」と自分(これ自体が
分裂した自己であるが故に)との間に
ギャップが生じる事を感情的
受け止めきれない。

弱い感情のままで、成長モデル
外部の状況に合わせてしまったために、
非常にもろい自己像(という観念)に
固執してしまい、活き活きとした
感情を持てなくなってしまう。

そして観点的な自己像と社会が
要求する自己像が一致しなくなり、
非難される事になった時には
簡単に崩壊してしまう。

こころって難しくて
やっかいですね。

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