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趣味は読書、此岸

2019年09月22日 03:43

昨日、栗本薫の「キャバレー」を読み終わったので、床の中でログを書いていたら、そのまま眠ってしまった。
それは、表に書こうと思う。

日記というのは、完全に私的なもので、他人に読まれることを、前提としていない。
僕は、このログの中で、中学から本を読み始めたことを何度か書いた。高校時代のことも、書いたかもしれない。
しかし、その先は書いていない。それは、今でも僕の中で、あまり触れたくないことだからだ。
僕は、一浪して、ある私大の文学部に入学した。
順番で言えば、第4志望。しかし、実力は、その程度だったということである。
子供の頃から、新しい環境にあまり馴染めず、特に同じクラスと言っても枠組みだけの大学のクラスでは、あまり友達も出来なかった。
それでも、一年目は高校生のように、毎回講義に通い、単位は全部取得した。
しかし、二年目の夏に、当時住んでいた所から、更に大学から離れた所に引っ越して、通学に一時間半くらいかかるようになると、次第に授業から、足が遠のいていった。
引っ越しが僕にもたらした変化がもう一つ。
僕は今でも免許を持っていないが、母も免許はなかった。
引っ越しの時、母が残って前の家の掃除をし、僕が新しい引っ越し先で、荷物の配置などを指示して、お金を払うのという分担にした。
引っ越しの時、作業員の男の人が二人来たのだが、僕の家が引っ越しに慣れていなくて、家の中があまりに片付いていなかった。そこで、急遽片付けのために、一人女性が呼ばれた。今となっては、厚かましい話だが、その女性の運転する小型のバンに同乗させてもらって、新しい引っ越し先まで行った。
その道中、雑談を交わす間に、学生のアルバイトも多くて、日払いでアルバイト代を渡しているという話になり、それまで幾つかアルバイトをして、長続きしなかった僕は、引っ越しアルバイトは良さそうだと印象づけられた。
そして、その年の12月アルバイトニュースで、前に住んでいた隣の市の運送屋が引っ越しアルバイト募集しているのを知り、応募して採用された。
よほど人手が、足りなかったのだろう、電話を掛けると、「君、力あるか?」とただそれだけ聞かれて、あとは日曜日に最寄り駅に着いたら、事務所に電話すれば、迎えに行くということだった。
この日払いのアルバイトが、僕の人生を変えてしまったのは、否めない。
免許の無い僕は、引っ越し助手といういわば作業員で、助手席に乗って、地図を見たり、後は作業が始まると、主に家から荷台まで、荷物を運ぶのが仕事だった。
引っ越しと言っても、段取りがあり、最初にダンボールやら、細かいものを片付けて、次に家具に傷が付かないように梱包して、大物を積む。
基本はいつでも同じで、トラックが二台に増えても細かい物を積んでから、広くなったところで、大物を梱包し、そして積む。
引っ越し先に着いたら、家具や電化製品の大きな物を先に配置して、細かなダンボールなどを降ろす。
キツイのは団地の5階で、何しろ階段が辛い。他にも、トラックが家の近くに付けられず、何十メートルも歩いたり、高層マンションで、エレベーターから部屋まで、遠かったり。
しかし、そんなアルバイトをしながら、日銭をもらった上に、お客さんからは、昼ごはんが出たり、チップをもらったりして、体はキツイが懐は暖かくなった。
僕の行っていた大学は、二年から三年になる時に単位を満たしていれば、四年生まで落第はなかった。
そして、二年から三年になる時に、教職課程や図書館司書の過程を取るかという選択があった。
僕は、図書館司書に興味があったが、たまたまその説明会にいた同級生の「図書館司書なんてジジくさいなぁ」という言葉を聞いて、そんなイメージなのかと思って、選択するのをやめてしまった。
これは、本当に愚かだったと僕は思っている。
あの時、図書館司書の課程を取っていれば、授業に出るハリが出来、少なくとも今のような自分ではなかった筈だ。
三年生になって、僕は「現代文学」のゼミを取った。近代文学ゼミは、色々な大学にあったが、現代文学を研究するゼミは珍しかったと思う。
僕はここでも過ちを犯している。
アルバイトに行けば、すぐにお金はもらえるし、家も遠くなって、授業はサボりがち。
大学も、第一志望ではなかったというので、勝手にコンプレックスを持っていたが、ゼミの先生は本当に良い先生で、今から考えたら、本当にサボってもったいないことをした。
全ては覚えていないが、三年生の時、確か、井上ひさし筒井康隆大江健三郎などを一月ずつ取り上げたと思う。
他の作家が思い出せないのは、授業をサボっていたからだ。
ずっと病気がちだった母の体調が、更に悪くなり、入退院を繰り返し始めたのも、その頃から。
僕は、社会に出るのが嫌で、アルバイトをしながら、留年を繰り返していた。
留年を告げる僕を悲しげに見ながら、それでも母は、自分が進学したいのを断念したという思いから、息子には卒業して欲しいと思っていたのだろう、大学をやめろとは、一度も言わなかった。
僕が25歳の時、母は亡くなった。大学6年生になっていて、しかも通っていないので、留年は間違いなかった。
それでも、アルバイトに行けば、暮らせたし、何とか学費も払えていた。
大学生という立場には、未練があったのだ。
しかし、事態は好転しなかった。当たり前である。何の手当てもしなかったのだから。
今、思い出したが、7年目の手続きに、大学に行った時、同級生に会った。
確か、クラスの最初の自己紹介の時に、二浪していると告白していた男だった。
僕はその最初の時には、こんな大学に二浪もして入るなんて、頭の悪い奴だと、少しバカにしていた。
しかし、その時会った彼は問いかける僕に「大学院博士課程の手続きに来た。学問に賭けたよ。」と言った。
そして、「ぜんぜん授業に来なくなったから、死んでしまったのかと思った」とも言った。
僕はその時、とても惨めだった。
バカにしていた同級生は、努力して学究の徒となり、僕は卒業の目処も立たずに、ただ籍を置いているだけ。
本当にショックだった。
しかし、それも一時のこと。
結局、僕はそのまま留年生活を大学八年目まで続け、中退してしまった。
引っ越しアルバイトは気楽で、しかもベテランになっていたので、居心地も良かったのだが、体力が落ちて来て、辛くなったのと、バブルが弾けて、景気が悪くなり、毎日あった仕事も減り、免許の無い僕は、段々と呼ばれなくなり、終いには社長から「免許があったら、運転する仕事は何とかあるが、助手だけだと、生活の保証は出来ない」と言われ、求人広告で、新しく派遣の仕事を見つけて、そちらに移った。
30歳になっていた。
その先も、流されて生きているのだが、もうこのくらいで。
何で、こんな個人的なことを、書いたのか自分でも分からないが、お彼岸が近いので、少しだけ、何も知らずに亡くなった母に懺悔したかったのかもしれない。

大学八年目。僕のゼミの担当教授は、フランス留学してしまい、大学に通っていなかった僕は、そのことを知らず、慌てて、近代文学ゼミの先生に頼んで、近代文学ゼミに入れてもらったが、やはりサボりがちになった。
八月、ゼミ合宿日光であり、僕はそれに参加した。
今では思い出せないが、もしかしたらその時は、ゼミにだけは出ようと思っていたのかもしれない。
近代文学ゼミだったが、その合宿で取り上げたのは、村上春樹の「ノルウェイの森」と吉本ばななの「TUGUMI」だった。
両方とも、まだ単行本しか出ておらず、僕はその課題図書を読んでおらず、前日の夜と、当日の日光までの電車の中で、窓外の景色も見ずに、ひたすら読み飛ばした記憶がある。
もちろん、ほとんど名前も顔も知らない後輩達ととのゼミには違和感があり、下準備もせずに臨んで、散々だった。
ただ、二日目の昼間の自由時間に、地元にある図書館に行って、誰もいない閲覧室で坂口安吾の本を幾つか拾い読みしたのを覚えている。
それきり、僕は授業に出なかった。

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