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成程話:名優“高倉健”さんのお話

2017年03月17日 23:59

名優“高倉健”さんの話。


平成二年(1990)、俳優高倉健は、高校時代親友の依頼で川越の少年鑑別所に行き、“挨拶”をすることになった。
どんなことを話せばよいかと友人に訊いた。

「世界で日本だけが、看守が拳銃を持たずにいる。少年たちを信頼しているからだ」というようなことを言ってもらえればいい、とのことだった。
少年たちは盆踊りの練習が終わったあとで、グラウンドで整列していた。蝉が盛んに鳴いていた。
高倉は一礼した。紅顔の少年たちだ。とたんにジーンと熱いものが込み上げ、先刻の約束の話はどこかにすっ飛んだ。
「いろんなことがあったから、皆さんここにいるんだろうけど、目をつぶって自分のいちばん好きな人、恩のある人を思い出してください。
その人のために、他の誰のためでもなくその人だけのために、一日でも早くここを出て、更生してください。
たとえば、恋人母親、父親、・・・目を閉じると浮かんでくる人のために頑張る。
そういう人を持つ、そういう気持ちを持つことがとっても大事なんじゃないかと思います」
訥々(とつとつ)として強く、温かい高倉の言葉は、耳を傾ける少年たちの胸に沁みた。
(中略)
高倉は、母が亡くなったとき、大事な撮影の最中で、告別式に行けなかった。その悲しみは深かった。
「お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがっていた背中に刺青を描れて、返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極南極アラスカアフリカまで、三十数年駆け続けてこれました」

80の物語で学ぶ 働く意味
川村 真二 著
日経ビジネス文庫


高倉健さんの伝説は数多くあります。
以下に紹介させていただきます。

〈録音師の証言〉撮影開始前、高倉健さんに、「シーンによっては、体に小型マイクをつけることがあります。」と説明をしに行ったら、「問題ないですよ」と言って、自分の服を広げて見せてくれたら、なんと、すでに、8つのマイク用ポケットが縫い付けてあって、それも、どれも音がしっかり拾えるような角度で付けてあって、驚きすぎて倒れそうになりました。
「これこそ、本当のスターだ、プロだ」と思いました。
1959年(昭和34年)に江利チエミさんと結婚したが、1971年(昭和46年)に離婚。その後は独身を通した。
江利さんの命日である2月13日には、毎年早朝にひっそり一人で墓前を訪れ、花を手向けていたそうです。
幸福黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンカツ丼を食べるシーンがある。
その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。
あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。
藤純子の、実父、俊藤浩滋 シュンドウ コウジ は、東映やくざ映画の、大プロデューサー
鶴田浩二や、若山富三郎を、育て、もちろん健さんも、彼に育ててもらった大恩人。
しかし、やくざ映画斜陽と共に、誤解が生じ、疎遠となってしまう。
以下、俊藤の著作より、
“そんなことを思うていたら、突然、年末に彼が私の家にやってきた。
「ご無沙汰しています」
健ちゃんは玄関に突っ立って、そう言うたきりボロボロ涙を流して、言葉が出ない。
「まあ、上がれよ」と言うと、
「いやあ・・・・・」と、ただ涙ながらに立っている。
「今日は何も言えませんから、またあらためて来ます」
それで帰ってしまった”

なぜ高倉健さんが、多くの人に愛されていたのかが、このエピソードだけでも伝わります。
こういう本物のひと素敵ですね♪

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