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水の透明度について

2006年08月22日 10:20

水の透明度について

昨日、雨の中、アムステルダムの水源地である緑地公園を家人と二人4時間半ほど歩いたのだが、美しい透き通った水路に沿って何キロも歩いていると久しぶりに昔に戻ったような気分になった。

ただ、水源地の性格上、自然で適度な水草や動物が豊かに生息する、というわけにもいかず少々透明すぎるのが玉に瑕なのだが昔、子供の頃、暑い夏に谷川の大きな滝つぼで泳いだり、学生当時、出雲の海で友人達と鮑やサザエを取って遊んだころの水の透明さを思い出した。

オランダ近辺の海は昨日も少し書いたように砂地の遠浅で底には殆ど海草の類がない。 いつも緑色か薄茶色が混じったような色で本来は透明なはずの海水や淡水にいつも微細な砂が混じっているので透明度も40cmはないのではないか。 だから泳いでいる自分の伸ばした指先が見えず、ゴーグルをつけて周りを見回しながら泳ぐ楽しみは期待できない。 故に不透明な、まるで薄茶の希釈液みたいな水に包まれてこの国の海や湖で泳ぐのは私の性にあっていない。 昔、この国に住みたてのころは湖、運河、海などで泳ぎ、汚い水だと思っていたのだが、見た目と質は全く違い、少々の匂いはあるものの不潔ではない。 それは子供の頃の、濁った水では泳がないという習慣が今も強く根付いているからだろう。 

ここから西に海岸沿いを移動してフランスノルマンディーの断崖が現れ、ごろごろした石灰岩の石が洗われる海岸から更にはコバルト色の吸い込まれるような透明の海岸が続くブルターニュに至ると潜る楽しみは充分味わえるのだが、そういう事はもう20年以上していない。 精々、数年前、初めて南仏ニースの海岸で透明な地中海で波にさらわれないように丸い石ころの海底を眺めた程度だ。透明な自然の水に潜る楽しみを手短に味わえるというのは今では贅沢の部類に属するのかもしれない。

だから、普通には仕方なく市営の室内プールで、あちらこちらに浮かんでいる河馬と見まがうご婦人達の手足をゴーグルの横目に見ながら25mを計60回ほど行ったり来たりしてその間のサウナ、その後のビールを楽しみに味気なく泳ぐという始末である。

雷の伴う霰かとも見える大粒の雨が水路に打ちつけられると水路の中、底は覗けないのだが時々雨が止んだときには日頃この国のどこにも見ることのない、私が日本で昔育った環境では自然で透明だと思えるこの水の透明度に魅了されて、もし許されるなら今、飛び込んでこの水路を遥か彼方まで遊泳したい誘惑に駆られたのだが、誰もいないとはいえ水源地の水を汚す行為は慎むべきと自制するだけの分別をもっていたし、更に、真夏とはいえこんな天気では大気の温度は15度ほど、水温はもう少し低いに違いなく、紫色の唇で震える醜態は見せたくはないし、体を温めるための強いアルコールのポケット瓶も今回はリュックの中に入っていないことに思いが至ったからでもあった。

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