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少し成程話:見すぎないように見る

2016年05月15日 23:26

ひろさちや氏の心に響く言葉


ものを見るという意味の字には「察」があります。
「明極まれば則ち察に過ぎて疑い多し」
これは朱子学について書かれた『近思録』という本にある一文です。
「察」というのは、細かなところまでつぶさに見ることを意味しています。
警察の「察」です。
「明」のほうはうすらぼんやり見る。
だから、人の欠点だとか、嫌なところまではあまり見ません。
一方「察」は、目をぱっと開けて見ます。
これは仏像でいえば明王です。
不動明王仏教界の警察官のような役割を果たしています。
人の欠点を細かに見て、コラッと縛って、指導していく。
だから、不動明王は剣を持ち、羂索(けんさく)という縄を持っています。
不動明王の目は、如来菩薩の像に比べると大きく見開いていて、まさに「察」の状態なのです。
「明」はそれほど開いてはいません。
この頃合いが難しい。
目をつぶってしまえば、見えなくなる。
見るのだけれど、あまりつぶさには見ない。
座禅のときの目の状態です。
見すぎないように見るのです。
禅語に「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉があります。
「莫」は「~するな」という意味です。
妄想を抱くな、ということ。
妄想は、現在使われているような意味ではなく、「わからないことまで考えてしまう」ことを指しています。
無駄な想像をしてしまうことが妄想
「莫妄想」を言い換えれば「くだらんことを考えるな」となります。
「明」の状態で、半眼でものを見ると、余計な情報はシャットアウトされます。
適切な情報量だけが入る。
そうすれば物事があきらかになります。
これが「あきらめる」です。
家が火事にあった。
焼かれたとなれば、その原因をどんどん探してしまうでしょう。
誰がやったのか? 何のために? 火元は? と、「察」の見方をしていくと、途端に情報量が増えていきます。
まだわかないことまで、「推察」するようになります。
妄想が出てくる。
まさにこれこそ「警察」ですね。
半眼くらいにしておけば、焼け落ちた事実だけを見ることができます。
「ただ焼けた」とあきらめることができるのです。

『人生はあきらめるとうまくいく』幻冬舎


ひろさちや氏はこう語る(同書より)。
「みなさんは『あきらめる』ことをせず、『がんばる』側、一方向のハウツーばかりを求め、苦しんでいます。
リストラされたなら、そのなかで、楽しく生きる工夫をこらす。
大学に落ちたなら、楽しい浪人生活を送ることを考える。
世間の基準にあわせて焦ってはいけません。
今ここで自分が楽しく、のんびり、ゆったり生きる工夫をしましょう」

「あきらめる」の反対は「がんばる」。
何か大きなトラブルや問題があったとき、その原因をいくら詮索しても(がんばっても)、今となってはもはやどうにもならない。
過去は変えられないし、未来は分からない。
物事を「察」の状態で細かく詮索すれば、嫌なことが見える。
重箱の隅をつつくのと同じ。
逆に、物事を半眼くらいでボーっと見ることができれば、のんびり、ゆったり、楽しく生きることができる。
人生は、見すぎないように見ると、楽しく生きられる。

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