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第二話の『おさん』。

2016年04月10日 21:55

第二話の『おさん』。

これは原作そのものが映画的で、たとえば、二つの話を同時進行させることや、回想場面の挿入の仕方がそうである。もちろん、映画はこうした原作の描写を踏襲している。とくに旅の宿での主人公参太と女中おふさ(新珠三千代)との会話はほとんど同じだった。実は若妻おさん(三田佳子)との場面より私はこちらの方が好きなのである。おさんとの関係については、この作品を映画で観たとき、どうも不自然に感じたところがあった。それは参太が、なぜ美しい若妻のおさんと離別までして、二年間に及ぶ上方への長い旅に出たのかということである。たとえ、おさんが夜の床で恍惚とし、参太の知らない男の名前を叫ぶとしても、それが離別する理由にはならないと思ったのだ。そして、風の噂に、江戸に残したおさんが次から次へと男に身をゆだねていると聞いた参太がそれでも妻への想いを捨てきれず、妻の元に帰ろうとする気持ちも分からなかった。帰途の旅で出会ったおふさとの成り行きは自然なのだが、参太があくまでも女房持ちであることにこだわって、離縁同然にした妻の、自分への変わらぬ愛を信じて疑わない。その単純さが、理解できなかった。原作を読んでも、これは同じで、どうも男女の心理描写に無理がある作品だなと思った。映画では、大磯の宿で、おふさが拾い集めた貝殻を参太に見せるシーンが印象的なのだが、これは原作にはない。おさんを昼顔に喩えるところは原作にもあるが、貝殻の場面では、原作はおふさを朝顔の花になぞらえていた。昼顔朝顔ではコントラストが際立たないので、映画では貝殻に変えたのだろう。『おさん』は、心理描写も原作に忠実で、参太のモノローグに近い言葉(辰造=佐藤慶との会話)などは原作の記述をそのままシナリオ化していた。原作の観念的に偏りすぎた欠陥が、映画にも見られたことは、残念だが仕方がないことだったのかもしれない。この作品は、全体的に暗くて身につまされる話だが、ラスト・シーンがせめてもの救いだった。参太が墓参りをして、昼顔を活け、死んだ妻おさんと語り合う。映画では、おさんの幽霊が出てくるが、原作にはなかった。原作では、参太が心の中で、妻ならこう答えるだろうと、自問自答していた。言うまでもなく、幽霊の方が映画的で、観る者の瞼に焼き付くように思えた。(つづく)

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