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硬い北海道の大地を突き破って…。

2012年02月11日 02:31

先月会うことを約束した、先輩のТさんと、このあいだの日曜日に銀座で会うことができました。なんと45年ぶりの再会です。Тさんは現在、都内の小さな出版社に非常勤で勤務しているそうです。72歳。
恰幅のよかった体格が、ずいぶんスリムになって、180センチの上背がすらりと伸び、スーツの襟に、黒のベルベット地に帆船を象(かたど)った襟章をつけていました。帆船は緑とゴールドであしらっていて、ひょっとすると、何かヴェネチアと関係があるかも知れないと考えました。
「それは、何ですか?」とたずねてみた。
「なーに、たいしたものじゃないよ」といって、何も話してくれませんでした。
「ちょっと、こういう会に縁があってね、……」といっています。黒っぽいスーツ地の襟に、よく似合っていると思いました。
Тさんはむかしからダンディで、精一杯のおしゃれをしていました。しかしいまでは額には苦悩の跡が残り、むかしは笑うと秀でた額がつるつるに輝いて見えたのですが、先日会ったときには、笑うと眉間に深いシワを刻み、たばこのヤニで黒くなった歯を見せていました。Тさんは洋もくが好きで、女性のまえでもよく吸っていました。 Тさんをひと目見たとき、ぼくは何か得体の知らない、からだの構造を痛めつける病気にかかっているらしいことがわかりました。
田中くんのことは、ときどき思い出していましたよ。最後にきみと会った日のことを覚えている? ほら、飯島實さんたちと、会った日のことですよ」といいます。
いきなり懐かしいお名前が飛び出しました。
飯島實さん。――忘れもしない報道写真界の第一人者です。なにぶん古い話ですが、戦前の旧「日本工房」の支配人をされ、戦後エディターズというデザイン工房社長をなさっておられた方です。あの亀倉雄策さんとか、土門拳さんたちを育てた人。その飯島實さんが、ぼくの直属の上司になったころの話です。
「土門さんのご尊顔を拝したのは、そのときでしたね」とТさんはいいます。飯島實さんと土門さんが応接室で何かおしゃべりしていたときのようです。おふたりとももう亡くなりましたが、ぼくらは偉大な人たちと巡り合っていました。
田中くんは、えらく多忙で、銀座のこずえで一杯やりながら、みんなは、きみが来るのを待っているというのに、きょうも徹夜だとかいって、とうとう来なかった。……治子、覚えていますか?」といいます。
「これまた、先輩はよく覚えていますね。治子ですか、そうですね。桑原治子。当時30歳くらいでしたかね? 彼女は」
「32、3歳くらいじゃないの? 和歌山県の生まれで、そろそろお金がたまったので、郷里の在で、パッチワークの小さな店なんかを開きたいとかいってた」
「そうでしたか。……当時治子は、新宿に住んでいて、行ったことあります?」
「おれかい? ないよ。……あの日は、きみを待ってて、待ちくたびれて、店をはねてから、治子を連れ出して六本木かどこかで飲みなおしたことがあるよ。そのとき、おれはきみに遠慮して、治子を抱かなかったけどね。これはいっておきたい」といいます。
「抱く気だったんですか? Тさん、遠慮なんかしなくていいのに、はははははっ」
「そうかい。……そうなのかい」
「そうですよ。ほら、治子の隣りにいつもいた、もうひとりの女性、知りません?」
「そうそう、いたいた。何という女性だっけ?」
「直子。……」
「直子、ねぇ。思い出さないね。顔は思い出すよ。治子みたいに痩せていなくて、ちょっと肉付きのいい子だったね。それが?」
「ぼくは、その子と付き合っていました、治子には内緒で。彼女桜木町アパートに住んでいて、遅くなると、ぼくは彼女の部屋にもぐりこんで、……」
「ほう、それは知らないね。きみは、おれの知らないことが多すぎるよ」といいます。
「きみが、お酒を飲むなんて、ぜんぜん知らなかったよ。リビングデザインセンター時代、きみはアルコールを飲まなかったよね?」
「飲めないものと思い込んでましたよ。銀座で先輩に誘われて飲んだのが病みつきになりまして、会社のつけがきくのは、3軒ぐらいあって、ときどき、クライアント担当者と飲みに出かけたのがきっかけですね。Тさんと再会したときは、飲めるようになっていました」
「きみから、飲みに誘われたときは、びっくりしたよ。銀座では、こずえが、いちばんよかったな。おれは、治子が好きでしたね。ちょうどそのころ、おれは離婚して、ひとり者だったし、治子みたいな女と、いっしょに暮らしたいと、夢みたいなことを考えたことがあるよ。そうだったのか、おれは、てっきり、治子はきみのものと思い込んでいたよ」
それから2時間、コーヒーを2杯も飲んで、いろいろおしゃべりしました。そしてТさんはぽつりといいました。
「じつは、おれのことをいうよ。……おれの命は、あと少しなんだ。……なんていうか、病気など無縁だと思ってたけど、脳梗塞で右半身不随になってから、リハビリでなんとか治せたんだが、こんどは前立腺がんが発見されてな、すでにリンパ節への転移もあって、切るのはもう不可能っていわれてね。……治療はしているけれど、脳血栓の再発をふせぐために、先日、睾丸を切り落としたよ。いまおれは、タマなしだよ」
「切り落としたって? ……宦官みたいに?」
「そう、むかしの宦官さ。……若いころから苦しめられてきた煩悩の元をバッサリ切り落として、いまはさっぱりしてますよ」
「タマは、ふたつともですか?」
「そう、ふたつとも。ははははっ、……身もこころも軽くなったというか、おかけで、腫瘍マーカーも激減したけど、……」といって、Тさんはコーヒーを飲んでむせたのか、大きな咳をしました。
「咳をしただけで、失禁なんだよ。尿路結石で始末をしてもらったのはいいが、退院しても、発熱と排尿困難に苦しめられているよ。休む間もなく、こんどは呼吸困難。ものが自由に食えない、これ、ときどき半身にマヒを起こして、筋肉の緊張が取れなくなってね、この後遺症は、嚥下障害の一種で、水や流動食は飲めないんだ」
コーヒーは、悪いんじゃありませんか?」
「だから、注意して飲んでるよ。田中くんと、こうしてコーヒーが飲めるのは、これが最後になりそうでね」といいます。Тさんはにやりと笑いました。
「いやだろう、こんな話?」
「いいえ、……」
それからТさんは、立ち上がってトイレに立った。立ち上がるとき、上体がふらついていました。ぼくは彼の肩に手をあてて、
「ぼくの肩につかまってください」といいました。だいじょうぶ、そういってトイレのほうに歩いていきました。5歩ほど歩くと、しゃんとしました。
ずいぶん時間がたちました。心配になって、トイレに行くと、ドアが開いてТさんが出てきました。
大丈夫ですか? ……」というと、
「しょうべんがなかなか出なくてね。困ったものだよ」といっています。そして席につくと、
「いま、ご家族の方は?」とたずねてみた。
「とうに離婚したからね。……いま、57歳の女と暮らしているよ。彼女、孤児(みなしご)なんだ。籍は入れていない。境遇がおんなじだからね、経堂でいっしょに暮しているよ。おれはその女と出会ったのが、何よりの喜びで、じきにおれはあの世へ旅立ち、女はふたたびひとりになる。……そういうふうにできているということかね? きみは溌剌として、元気だし、きみのブログ記事を読んで、田中くんらしいなと思うよ。北海道の北竜町だっけ? きみのいなかは、大切にしなくちゃな。硬い北海道の大地を突き破ってさ、新鮮な大気のなかで芽吹くものがあるよね。それはきみのいう志だろ? まっすぐな生き方がいいね。……ついでに意見をひとついわせてもらうと、《鎖国》はあったと思うよ」といいます。
Тさんから、「硬い北海道の大地を突き破ってさ、新鮮な大気のなかで芽吹くものがあるよね。それはきみのいう志だろ?」ということばですが、ありがたく受け止めました。
Тさんは、昭和48年、リビングデザインセンターを辞めて、一時、大阪ラーメン屋開店し、2年後東京に戻って、フリーでグラフィックデザインの仕事をしていました。Тさんと最後に別れたときは、なんでも、Тさんはコンドームメーカー就職が決まって、社長室長として勤務。その後はお互いに別々の道を歩きました。結婚も、仲間の出会いも、歴史同様に、時代の物語のフレームから、いつの間にかすり抜けて行くもののようですね。Тさんは生涯を決する崖っぷちにたたずみながら、ぼくのことを気にかけてくれていて、それが嬉しくなりました。
金子由香利の歌うシャンソン、《再会》っていう曲ですが、いま、なつかしいですね」
「ああ、なつかしいね。――一生添い遂げたいといっていたのに。男はどうしようもない馬鹿だね、……か。この歌の文句、なかなか切なくなるね?」と彼はいい、口に手を当てました。何かにむせているみたいでした。

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