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性体験記 その4

2006年09月09日 12:20

妻が発病したのは、私たちが家庭内再婚で新居に移転して、
1年ぐらいしてからだから、平成2年頃だった。
左の乳房乳首の下に、豆粒ほどの小さな突起が出たのだ。
当時はまるで乳癌の知識など無く、吹き出物ぐらいに思っていた。
後で知ったのだが、妻は当然すぐに細胞診をしたらしい。
結果は悪性腫瘍だったらしいが、私には良性だとウソを言ったのだ。
その後しばらくして、小指大に膨らんだ頃、さすがに気になって、
問いつめて、悪性だと判ったので、すぐ手術を勧めたのだが、
妻は頑として拒んだのだ。「男には解らない気持ち」だと言う。
当時の関西の病院は大阪大学系列で、全摘が主流だったから、
妻は乳房を失う恐怖に勝てなかったのだ。

当時流行していた民間療法で治したいと言う。
柿の葉温灸療法」と言う民間療法に頼った。
近所の柿の木を見つけてきて、柿の葉をたくさん集めてきた。
その柿の葉乳房の周辺だけでなく、胸部全体に施療した。
柿の葉を敷いて、その上に温灸を据えるのだ。
これを毎夜就寝前に1時間かけて施療し、
更に全身のツボに1時間かけて指圧マッサージを施した。
これを1年半にわたって毎夜続けたが、ほとんど効果が無かった。

平成4年になると、妻の左の乳房がカチンカチンに硬くなって、
とうとう痛みが出始めて、初めて彼女は危機感を持った。
そして紹介してもらった神戸の甲南病院に入院したのだ。
平成4年のお正月早々に入院し、放射線療法で進行を止めようとした。
全く効果が無く、3月に手術をしたときにはリンパ節にまで転移して、
主治医の先生から余命6ヵ月と宣告された。
5月にはいったん退院したのだが、8月に再入院し、
とうとう11月11日に亡くなった。手術して8ヵ月目だった。

先生から余命6ヵ月と宣告されて、最初は動揺を隠すのに必死だった。
術後の一時退院の間、ごっそり削ぎ取られた左胸のケロイド状の傷跡は
見るに堪えない痛々しさだったが、それを見続けてる間に覚悟が、
私の心にじわじわ染み込んで、静かに見送る心境になった筈だった。
しかしこんなに早く妻が死んでしまうとは思っていなかったから、
翌日の葬儀だけは気を張って済ませたが、その後の落胆は大きかった。

ところが妻の死の5日目の日曜日、私は妻の遺品を整理していて、
驚愕の事実を発見してしまった。不倫メモが残っていたのだ。
私が静岡単身赴任中に、8歳も年下の男と出来ていたのだ。
彼女が15年勤務していた会社の近所の船会社の専務だった。
あろうことか、私が静岡から一時帰宅した日も、彼とHした後だった。
その日は久しぶりの帰宅だったのに、拒否された記憶がある。

私はその翌日、残されたメモから相手の電話番号を知り、
その男に電話をして会いに行った。男はあっさり認めたのだ。
それどころか、Hした回数までしゃべってしまう男だった。
私は「なんでこんな軽い男と」と無性に腹が立った。
私は妻との22年間、1度も浮気をしなかった。
もちろんチャンスは何度もあったが、その都度自制できたのは、
妻に苦労をさせてる自分への自責の思いが強かったからだ。
ところが妻は寂しさに耐えられなかったらしい。

この時から、私は法事以外の日は仏壇を開くことが出来なくなった。
妻への憎しみではない。直接妻に怒りをぶつけられない悔しさだった。
猛烈な嫉妬が襲ってきて、私の股間がギンギンに勃起したのだ。
妻の入院以来、性欲は衰える一方で、長らく勃起しなかった我が一物が
妻の不倫を知った途端、抑えきれないほど復活するとは思わなかった。
嫉妬とは恐ろしい。その日以来、私は女狂いのスケベ男に変身した。

妻の遺品を形見分けすることにして、妻の妹2人に整理を依頼したが、
押し入れの中から衣装類が衣裳ケースに10棹以上出てきて、
その多さに仰天した。私と義妹2人で整理に1週間もかかった。
ほとんどがデザイン的にも優れた逸品揃いで、ブランド品もあり、
義妹たちが持ち帰った量は、彼女らの2年分に相当するみたいだった。
もし今、ネットオークションに出せば、数百万円にもなる量である。
当時でさえ、その高価さは十分想像できた。

私が単身赴任中は毎月25万の送金をするためにギリギリに切り詰めて、
好きな本も買えずに我慢したのに、彼女はこんな贅沢をしていたわけで
さすがにむかついた。考えてみれば、妻の月収は15万あったんだから、
私の送金を合わせれば、月40万が自由に使えたわけだ。
妻の日記によると、会社の同僚との会食も彼女が支払ったようだし、
8歳年下の彼とのデート代もほとんど払っていた。
これでは預貯金が200万ほどだった理由がハッキリ判った。

妻の死は彼女本人すら予想外だったようで、再入院の時も、
ちょっとした検査入院のつもりだったから、身辺整理を怠ったのだ。
彼女は再入院してまもなく、自分の余命が僅かしかないと悟ったとき、
何度も帰宅すると言って駄々を捏ねたことがあったが、
多分そのとき自分の死後に、すべてが明らかになるのを恐れたのだと、
今にして判った。妻の死後、義母が語った言葉がよみがえる。
「私が死んだら、私の命より大事なことが原因で、大騒動になる」と、
言ったそうだ。義母はその意味が判らず、不思議そうに話したのだが、
これがそうだったのだ。妻の不倫は2人の義妹も知っていた。
ここまで知ってしまうと、もはや妻への哀惜は完全に消滅した。

私が必死になって守ろうとした家族の絆が脆くも崩れ去った。
夫婦っていったい何だったのか? たとえ見合い結婚した夫婦でも、
22年の夫婦の軌跡は消えない。3人の息子を育て、共同で家庭を築き、
紆余曲折を乗り越えて来れたのも、愛があればこそだと思っていたが、
それは単なる幻想に過ぎなかった。所詮夫婦は他人だったのだ。
この日から私の知らなかった「女心を探す旅」が始まった。

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