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性体験記 その3

2006年09月08日 08:17

綾子さんと別れたのは、彼女がお父さんの訃報を聞いて、
急遽、松本へ帰り、彼女郷里再婚することが決まったことだ。
私の身にも変化があった。
最初の就職先が2年で限界を感じ、転職したからでもあった。

綾子さんと別れ、転職した頃、最初の恋愛をした。25歳だった。
相手は前職時の同僚の美智子である。
この美智子との恋愛はまさに純愛そのもので、
連日のように心斎橋で待ち合わせ、現在のアメ横の近くの喫茶店で、
夜遅くまで語り合ったが、最後まで体の関係に踏み切れなかった。
彼女は不幸な家庭環境で、その心労が原因で発病し、半年入院した。
肺浸潤、つまり結核の初期だった。
半年後に退院するまで、毎日彼女の病室に通い、彼女を励まし続けた。
半年後に退院した後、なかなか結婚に踏み切れない私の優柔不断に、
とうとうしびれを切らした彼女は、自ら連絡を絶ってしまった。

美智子はその後、風の便りで見合い結婚したと聞いた。
彼女結婚を知って、初めて私は安堵したのを記憶している。
私が彼女との結婚に踏み切れなかった原因はハッキリしていた。
私の家の事情彼女の家庭環境があまりに違いすぎて、
その頃の私には彼女を幸せにする自信がなかったのだ。
ただ、その後の私の人生が波瀾万丈だったことから、
あのとき思い切って彼女結婚していたら、
或いはもっと幸せな家庭を作れたかも知れないと後悔したこともある。

私は彼女結婚の1年後、昭和42年11月3日、見合いで結婚した。
私の結婚生活は、最初の10年は比較的幸せなほうだったと思う。
3人の息子に恵まれ、夫婦仲もよく、彼女の実家とも巧くいっていた。
私たち夫婦に亀裂が出来始めたのは、私の転職がきっかけだった。
収入が激減し、私はすっかり自信を失って、夫婦関係にもひびが入り、
生活維持のために転職を繰り返す悪循環で、家庭が壊れ始めた。

自分のやりたいことも我慢し、ただひたすら生活のために働いた。
3男が生まれた直後の昭和49年頃からは、幼児保育所に預け、
妻が働きに出て、更にプレッシャーが重くのしかかった。
2年間身売り同然の単身赴任静岡へ行ったのもその頃。
毎月25万の仕送りで、ただ出勤して帰るだけの味気ない日々。
自分でもよくぞ頑張った思うぐらい辛かった。
精神的にも肉体的にもボロボロになって帰宅したときには、
2LDKの我が家には私の居場所が無くなっていた。
このためやむなく家出同然に別居した。

別居生活は2年続いた。伊丹の3畳1間のボロアパートで、
侘びしい1人暮らしだったが、これが私の傷ついた心身を癒した。
静岡にいた頃はド田舎の汚い寮暮らしで、酒が飲めない私には、
娯楽なんて何もなかったが、さすがに阪神間は違った。
静岡で安く入手した愛車を駆って、趣味の日本史の研究に余念が無く、
各地の図書館巡りが楽しかった。
その2年間で私は初めて心のゆとりを得た。

49歳の誕生日をボロアパートで1人寂しく祝ったとき、
私は残りの人生を自分のために費やそうと誓った。
大学受験就職結婚もすべて親の言いなり、
結婚後は妻子を養うために身を粉にして働いたが、
まるで坂道を転がるように悪循環を繰り返し、
どんどん自分を見失っていった。毎日が苦渋に満ちた生活に、
将来への展望がまるで見えなかった中で、
この時期が一番充実していた。心が癒され、微かな光を見たのだ。

別居生活に終止符を打ったのは平成元年の秋だった。
妻と話し合って3LDKに転居することになったのは、
長男が筑波大学合格して、茨城下宿することになったからだ。
長男は成績優秀で、奨学金で学費を全額賄えたのが大きかった。
私は妻との夫婦関係を修復するため、家庭内再婚プロポーズをし、
再婚旅行に誘った。富士山を見に連れて行ったのだ。
静岡にいた頃、毎日眺めていた雄大な富士山を妻に見せたかった。
往復を愛車で突っ走って、富士五湖精進湖に1泊だけの貧しい旅。
だが、ようやく長かった妻との和解が成立した喜びは例えようもない。
精進湖の湖畔の宿で、妻と再び結ばれた時、私は自然に涙がこぼれた。

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