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エロス+虐殺 ; 見た映画 June ’06 (9

2006年06月28日 00:21

エロス+虐殺  (1970年)
   

製作;現代映画社 配給;AT

白黒 シネマスコープ  約170分 (ほぼオリジナルは216分)

製作;吉田喜重
脚本;山田正弘吉田喜重
撮影;長谷川元吉
音楽;一柳慧
美術石井強司
照明;海野義雄
 
配役
   
大杉栄細川俊之
伊藤野枝岡田茉莉子
魔子  〃 
正岡逸子 楠侑子
辻潤高橋悦史
堀保子八木昌子
平賀哀鳥 稲野和子
和田原田二郎
畝間満 川辺久造
えいこ   伊井利子




見なければよかった、との感想を持った。 70年代を学生として生きた世代にはそれはあまりにも当時の姿勢を生々しく批判するものと映ったからだ。 それでは現在の自分にはどうなのかと今30歳代の威勢のいい人間から詰問されると、それは、、、と切れの悪い以下の独り言となり、この映画は今、肉の生身を切り刻むものとしてあると嘯いて脂肪のついた腹を撫で擦ることになる。 今は自己批判の季節ではないようで少しは寂しいようなほっとした生ぬるい空気なのだが思わぬ映画が時空を越えて当時に感覚をリセットさせ、ゲームオーバー後の長い居眠りから目が覚めて賢い人からは出てこないような寝ぼけた戯言を涎にまじって出させたようだ。

私にとって映画とは、映画に対して焼けるほどの思い入れもないまま、映画館に行くでもなく日頃、周りの手に届く範囲で暇つぶしのための「見る、観る」ことの為に時間を費やす一つの材料でしかない。

当時すでに戦後西欧資本主義的大量消費社会の、それも伝統倫理に則る管理社会をバックボーンにした労働市場に数年後に入らざるを得ないと漠然と受け止めていた団塊世代には、けれどその大半は青年期の社会的覚醒に寝ぼけ眼を幻惑されてまぶしさの中で直感に従って直情反応をしたのだろうが、その当時の彼らが認知した閉塞したと知覚する社会にいかに風穴を開けられるかというそのことを整理するのには頭の痛いことだったに違いない。 問題が山積していたし今も山積する。 若者大言壮語アジテーター、前衛の旗を掲げるものには心惹かれるものである。 そして後その一時のハシカと喩えられたその季節が終息する。

その局面にあり映画制作にあたって大杉栄岡田伊藤野枝を配置したことに60年代を過ぎこした「吉田喜重の1970年」があったのだろう。

そして、男と女の半世紀を隔ててのアナロジーを平行して構築するにはフィルムの制約があったのか、岡田の野枝に男達は女性解放の重荷を背負わせる当時の前衛を置きながら、終末論も飛び出ていた60年代末の男女関係をその当時の「前衛」、「実験」演劇調で対峙させて、テキストには説得力はあるものの俳優のしぐさに苦笑と多少の疑問も湧く70年を配置した。 当時、私の周りにはグループ員の保釈金を捻出するのにキャバレーアルバイトをしながら伊藤や高群逸江を卒業論文にしようとして結局うやむやのままになった女友達たちがいた。

ただ映画内で、70年に男達の間を保安の間諜も交えて彷徨う女にシャワー室の裸体の腰の辺りに白い盆を纏わりつけて男達の腕を這わせるのだけではそれがエロスにはなり得ない。 原田とその周辺の何とかテントの実験的演劇所作ではそのテキストのみが不発爆弾の火薬として熱を持つだけである。 いずれにせよ原田の70年は既に終わっている。

かなりの史実を脚本に創った映画の戦略は、自己世界観、社会観の軸に、男女の性差という相関軸を加えたときに生じる揺れに焦点を当てたものであろう。 多分、当時の若い自分がこれを観ていたら映像の新奇さ、科白の当然さ、”芸術プロパー言語ともで言うべき「前衛」性に幻惑されただけだったろうと想像する。

現代音楽で活躍する一柳慧の36年前を聴くのは興味深いことだ。 とりわけ誰が演奏するのかクリームクラプトン調あり、R&Bあり、70年当時の風俗スタジオ風景の中でながれる「エレキ」音楽、大正映像のなかでの緊張感とノスタルジーロマンチシズムを誘う音響には、黒澤での武満、新藤兼人林光、そしてここで吉田の一柳かと納得したのだった。

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