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今日のニュースで思い出したこと

2006年06月17日 00:12

愛国心についての論議をテレビニュースで見て、思い出したことがあった。

自分の家族、兄弟を愛する、というのが概ね誰にも否定出来ないことなのだろうが、他人、身内を問わず多かれ少なかれ傷つけあうニュースが跡を絶たないこの世界、愛憎が交錯して複雑である。 家族にしてこれであるのだから国を愛するということになればそれが当然かどうかというと、これがまるで雲をつかむような気分になって呆然となるのだけど、さて、お前は国を愛しているかと問われれば、それが家族、自分の住むまわりの世界についてでさえ私は自分の家族を愛しているといっても子供からは嫌われたり挙句の果てはもっとひどいことを言われかねないことがあるのだし、まして国となるともっと揺れが激しいのであるから、結局、答えとしては愛したいのだけどそれはその状況に依るだろうと腰の砕けた答えてしかお茶を濁すことになる。 

家族であるから当然に愛する、ということにも振れがあるのだから国を愛するというのは様々な要素が絡み合い、単純に家族と同じよう考えればいいという筋道は当然ととはいえない。 誰も家族と同じように自分のものである国を愛したいとは思っているのだろうがそこにはいろいろと事情が絡み単純には応えられない。こちらが愛しているといってもこちらを愛して呉れていないのではないかと思えることが多い。 国が我々にそれを問うならば向こうもこちらを愛する努力、証を示さなければならないのではないか。 それに国というものの厄介さは家族と同じように自分の思うようになかなかならない、ということである。 人間の世界である。

そこで、われわれの内側をおしはかり、父親が我々子供達に父親を愛さなければいけないと宣言するとしよう。 すると我々は、何をこの糞親父そんなこと愛せということ自体愛されていないからこそほざくだけのことで、実際お前が我々から愛されていると自覚しているならそんな宣言自体に意味はないのだ、と返答することになるだろう。 だから、このように強制することには意味がないし、そのことに疑問が湧く。 愛せといわれて愛せるものではない。 親父なら親父らしいことをしているのか、と逆に食って掛かられるのが関の山である。 これがメールショービニストの例えであるというなら、国を母親と例えても同じことである。 厄介なのは国というものは肉親以上に我々を拘束するし、少なくとも国の人口分の一は自分であるということでもある。 国は自分の部分であるのだから国を愛するということは自分を愛するということでもある。 けれども自分を愛することが国を愛することには単純にはつながらない。

だから愛国心という言葉にはそれが発言される場所、状況、誰が、ということに注意が行く。 ことにある学校では成績の通知表愛国心の評価、というコラムが出来たと報道されてその状況が此処まで後退したのかとの暗澹たる想いが隠せない。 歴史教育に対するアジア諸国からの政治的警告に経済大国としてまた地域のリーダーに対抗する政府の姿勢の現れなのだろうし、この20年ほど、いや40年にもなるのかこの傾向は。

高校の時は60年代の後半で、「荒れ」た。 それは日本の経済、政治の変化が大きかったときであり、丁度その時に高校、大学では様々なこと、概ね大学運営、それに続く政府の態度に対して議論となり、示威行為があり、大学が閉鎖されるという時期が続いたことさえあり、後年、高校時代の教師から私達の年度は旧制中学始まって以来の最低の成績であったと笑いながら告げられたものだ。 高校卒業式も荒れた。 教師団と学生たちとの交渉が何度か持たれ、そこでは国旗掲揚国歌斉唱をめぐっての式典ボイコットが問題だったのだが結局、個人の判断ということになり私を含む多数が国歌斉唱の折には起立せず歌わなかった。 しかし、それは個人的判断の個人的行為ではあるものの周りからは見えず示威行為とはならなかった。 オリンピック表彰台アメリカ黒人差別に抗議してこぶしを上げて国歌を聞いたという黒人メダリストがいたのだからなぜそういうことが思いつかなかったのだろうかと思ったのだがそこは当時の青い思考が硬直していたのだろう。

その後、国歌にしてもこじつけ解釈で、君が代、というのはピート・シーガーのThis Land Is Your Landなみに急に「資本主義民主国家、アメリカ」なみの君の国、私の国になったということが報道されて、あまりの様にあきれてものも言えなくなったものだ。

今日の首相コメントは苦笑しながらで、自分の推し進めている政策があまりに露骨に推し進められて逆にそれに当惑しているように見えたのだった。

国を愛することには概ね誰も反対しないだろうが、誰が誰に愛せよ、と強制できるのだろうか。 そして、学校というところがそれを成績評価に組み入れるというのだからこの学校の姿は嘗てどこかで見たり聞いたり読んだりした姿に近づいているような危惧を持つ。 歴史は前に進むというのは幻想である。

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