- 名前
- ヴォーゲル
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- 73歳
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- 海外
- 自己紹介
- もう海外在住29年、定年もそろそろ始まり、人生のソフト・ランディング、心に浮かぶこと...
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なんとまあ、お○○こだ
2009年01月30日 12:29
町の進歩的なフリーペーパーの一面に載っていた写真に見とれた。 なんと「お○○こ」の白黒写真のオンパレードだ。 それは芸術家と婦人科の教授がコラボレーションで40人の女性の型をとり、性転換者、処女、ポルノ映画のスター、65歳のおばあさん、この女性教授のも含めて平均的な「実物」を忠実に再現し展示した「アート」を写したものだ。
この何年も、とくにイスラム女性のあいだで人権問題として国連機関から問題視されている陰核削除手術に反対する「西側」女性の声に対してその「西側」のベクトルは別としてもそれに相当するかのような、女性の陰部矯正手術を「美容?!」ファッションとする傾向に水を差す批判的な議論の上の「芸術的」マニフェステーションなのだ。
「大きすぎると最早普通じゃない?」とヘッドラインにしてその下に「実際には大陰唇がとても大きいというのは本当にとても稀で問題はそういうことを考える女性の(脅迫)観念なのです」との大学病院婦人科の女性教授のコメントが載っている。
曰く、女性の多くは自分の恥部にある陰唇(オランダ語ではただの陰の唇ではなく「恥」の唇、schaam -lippen(複数形)、単数ではschaamlip)を女性の誇りと考えるのではなくむしろ「恥」とする考え方がこのようなトレンドに拍車をかけるのだ、と書いてある。 日本は恥の文化、だと文化比較のある局面では言われるが性に関して60年代から開放的と喧伝される北欧、オランダを含む中央ヨーロッパの地域では「恥」に対する観念は日本よりはるかに強い部分が多いだろう。 それは一般に性をも包含する社会性に対するモラル「恥」であり、近年日本社会のタガが外れていると老人達から指摘されている「若者文化」に比較するとそれは顕著であり、その日本の若者達があこがれるアメリカの現実に直面すれば自分たちの野放図さ、見当違いが実感される部分も多いだろう。
こういうもの、ものと呼ぶのは失礼で、何と呼べばいいのか戸惑うのだが、中性的には言えば器官なのだろうけど、ヘテロの男にとっては青春の時期から神秘の場所であり、人生のかなりの部分はこの器官を巡ってエネルギーを消費したり、浪費したり、生産的かつ、人類、いや生物の摂理に従って日常生活に重要な貢献をしているのだろうが還暦近い者にとっては懐かしかったり、へえ、こういうものだったのかなるほどなあ、おもしろいものだ、とまるで博物館で昆虫か蛹の殻を眺めるように目を走らせる。
この20年ほどインターネットを使い、それが日常のかなりの部分をカバーするものであり、コンピューター、とりわけネットの進歩のかなりの部分が「正しい使い方」の裏に暗黙のうちかネットの進歩、秩序がワイルドウエスト状態だったからか、強い雑草のごとく肥料となるのか猥雑なセックスに関する情報があふれ、そういう猥雑な画像の処理技術が大きく貢献したと喧伝させるのを実感している。 日常のネットサーフのどこで引っかかるのかブログのコメントやトラックバックに絡まりついてくるスパムの繁茂を見ても分ることだ。 小さいときから読めるものは何でも読んで見られるものは何でも見ても良い、というような環境にいたし、とりわけセックスに寛容な、というより人間の営為に対しては客観的に扱うというようなおおらかな風土のオランダに住んでいると多分地球のかなりの部分より性に関する「神秘」の幅が小さくなっている環境だからこういう記事が新聞の第一面に出ても不思議ではないと今更ながら感心する。
昨日もテレビでアメリカの映画産業の検閲システムについてのドキュメントがあり、そこではアメリカの進歩的映画監督、批評家、ジャーナリスト、知識人の意見は一貫して1940年代以来のビクトリア時代の再生産というような批判のあるとおり政府が関係しなくとも産業の自主映倫委員会による性倫理の後進性、様々な暴力形態の放任、ジェンダーの多様性に対する不寛容などが指摘され、そこでヨーロッパの映画のレベルまであとどのくらいかかるのか、特にレーガン以来共和党政権下の保守的モラルがオバマ政権で簡単に変わるというような楽観論はとっていないというような論調で見たり聞いたりしたところだからそういうこともこの記事、写真に対称されて興味深かったのだ。
いつだったか日本の、投稿写真を自由に貼り付ける写真のうPローダというのかそうサイト内にこれ以上に生々しく生身の100ほどの同じ器官が貼り付けてあるのを見て思わず大笑いと関心したことがあるからこの芸術作品に直面しても踊らされはしない。
一方、男である自分の道具、器官を含めて40人の怒ったり意気消沈したり様々な方向を向いている男性器官のレプリカをこのように展示したものがあってもそれが別段どうだ、という心地もして、そういえばこれを様々に細工する輩が昔から居ることも承知しているから今更こういうもの、どうということはない。
「お○○こ」と呼ばれる名前を言えといわれても中性的になんの感慨もなく発音できるけれどそれを自分の育った地区の言葉で言われるとその恥ずかしさに消え入りそうになる。
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